東野圭吾さんの突然の訃報から2カ月が経とうとしている。多くのファンが悲しみに暮れるなか刊行されたガリレオ・シリーズ最新作『永遠の記憶』はすでに累計発行部数63万部を突破した。瞬く間に版を重ねるなか、いま再び注目を集めているのが、シリーズ、そして東野作品最大のヒット作でもある『容疑者Xの献身』(以下『X』)だ。文藝春秋在籍時に長く東野番を務め、『x』では連載を担当した別宮ユリアさんが傑作誕生の舞台裏を明かした。
面白い……。けれど、こんなにマニアックな科学トリック・ミステリーがどれだけの読者に受け入れられるだろうか――。小説誌での担当を引き継ぐに当たり、それまで掲載されていた『探偵ガリレオ』の4つの短編を読んだ時のことを別宮さんはそう振り返る。国民的人気シリーズとして、累計1700万部を超えた今となっては信じがたいが、専門的な科学知識を用いた推理小説が売れるとは考えられていない時代だった。2005年刊行の『X』が大ベストセラーになる7年ほど前のことだ。
単行本の刊行は1998年5月。理系出身の東野さんらしい天才物理学者が主人公の物語は、好評をもって受け入れられて増刷もしたが、現在に至る大ヒットを思えば地味なスタートといえた。
風向きが変わったのはほんの数カ月後だった。自身初のヒット作『秘密』を皮切りに次々とベストセラーを連発。デビューからなかなか売れなかった十数年が嘘のように一躍人気作家の一人となった。『白夜行』『片想い』『手紙』『幻夜』など、今なお人気の高い作品群を立て続けに生み出し、約5年の間に5度の直木賞候補にも選ばれた。
『X』の連載が始まったのは、そんな作家としての最初の充実期を迎えていた03年のこと。
「シリーズ第3作が長編になったのは編集部側からの強い要望があったからです。次のガリレオは絶対に長編を、と。東野さんも快諾してくださいました」
構想段階で聞かされていたキーワードは2つ――〈vs. 天才数学者〉と〈シラノ・ド・ベルジュラック〉だったという。シリーズ屈指の存在感を誇る石神哲哉のことだ。湯川の親友でもあった彼は、大学時代の恋心を抱いていた隣人・靖子が犯した殺人を隠ぺいするために完璧な計画を立て、湯川や捜査陣の前に立ちはだかった。
「石神は映画での堤真一さんのイメージが強い人が多いと思うんですけど、原作では“ダルマの石神”というあだ名で、醜男であることがより強調された表現が多い。鼻の大きな自分の容姿をコンプレックスに思い、愛する女性のために別の美男子との恋を応援してしまうシラノのイメージが石神には投影されていますよね」

連載が進むなか、ある回の原稿を一読した別宮さんは、「これは傑作だ!」と確信した。その瞬間のことを今でも鮮明に覚えている。最終回の直前、元夫殺しの罪を犯した靖子に湯川が自身の推理を明かす場面だ。愛する女性を守るため、石神が犯した驚くべき“献身”は、古今東西、誰も思いつかなかったようなトリックだった。衝撃を受けた別宮さんは読み終わった原稿を手に持ったまま、よろよろとした足取りで単行本担当のもとへ向かった。
「ものすごい原稿が来ちゃいましたよ……」
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source : 週刊文春 2026年9月24日・10月1日号
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