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“裸の大将”姿で全国バス行脚 小嶺監督を選手が信じた理由

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栗原 正夫
エンタメ スポーツ

 長崎の国見高を全国高校選手権で戦後最多タイの6度の優勝に導いた、高校サッカーの名将・小嶺忠敏氏が1月7日、肝不全のため76歳で亡くなった。

 体重100キロを超す巨漢で、猪突猛進型の性格から付いたあだ名は「ダンプ」。その名の通り、小嶺監督は指導者として50年以上に渡り第一線を突っ走ってきた。

 国見高は島原半島にある田舎の公立校で、交通の便も悪ければ予算も少ない。優秀な選手が多く入学してくるわけでもなく、全国優勝をねらうにはハンデは少なくなかった。そんななか小嶺監督がチーム強化のために取った策が、自らマイクロバスを運転して全国を回り、強豪校と徹底的に試合を重ねることだった。

「金がなくて、それしか方法がなかった(苦笑)。昔は高速道路も整備されておらず、福岡まで約4時間、新潟まで約24時間かかった。さすがに北海道には行かなかったが、夏休みには山形や岩手までは行った。運転は一人で、途中どうしても眠くなったときは路肩に車を寄せて仮眠していた」

2001年、国見高校総監督時代の小嶺氏 ©共同通信社

 生前、小嶺監督は昔をそう懐かしんだが、勝負にかける熱い思いはときに度が過ぎると批判を浴びたことも。当初は万が一事故が起きたらと、学校はバス移動に猛反対。あるとき校長に呼ばれ、こう告げられた。

「オマエが事故を起こして、クビになるのはいい。けど、オレまでクビになるから、すぐにやめろ!」

 それでも、小嶺監督はやめなかった。

「学校にバレないように朝5時に出発し、戻りは夜10時過ぎにするなど工夫した。ルール違反と承知していても、ときに人間はそれを破ってでもしなければいけないことがある。結果を出せば、周囲も理解してくれる。『出る杭は打たれる。だったら打たれないところまで伸びろ』。教え子にも、そう言い続けてきた」

 バスにエアコンはなく、夏場は半パンに上半身裸で運転し、その姿はまるで“裸の大将”だった。ただ、そこまで勝負にこだわる監督の姿勢に選手はついていった。1987年度の国見初優勝時のメンバーで、Jリーグで長くプレーした永井秀樹(50)はこう振り返る。

「遠征先では、バスを降りてアップもなしにすぐに試合。多いときは朝食前に1試合やって、午前と午後に2試合ずつで計5試合やった後、内容が悪いと『走れ』って。普通じゃない(笑)。でも、プロになって口だけは立派な人はいっぱいいたけど、小嶺先生ほど勝負に情熱を注いでいる指導者を見たことはない」

 傍からは常軌を逸していると見えたかもしれない。だが、それこそが小嶺流だったのだ。合掌。

source : 週刊文春 2022年1月20日号

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