週刊文春 電子版

ミステリー|林真理子

夜ふけのなわとび 第1740回

林 真理子
ライフ ライフスタイル

 年に1度の、人間ドックの日が近づいてきた。

 といっても、コロナの影響もあり、例年よりちょっと日が空いてしまった。正確に言うと、1ヶ月半というところだ。

 この何年かは内視鏡で診てもらっている。

 内視鏡検査が好きな人はまずいないと思うが、私も本当に苦手。特に胃カメラを飲む時などは、何日も前から憂鬱なことこのうえない。

 以前人間ドックを受けていた某大学附属病院は、軽い麻酔をかけてくれた。ぼうっとなるぐらいのレベルの。

 ドキドキしながら順番を待っていたら、お年寄りが看護師さんに文句を言っている。

「まだ胃カメラ、飲んでないんだけど」

「いいえ、もうお済みですよ」

「そんなことはないよ。さっき診察台に行った時に何もしなかったけどどうしてしないんだ」

「本当にもう写真撮ったんですよ。本当です」

「そんなはずはない。絶対にない」

 このやりとりを聞いていた私は、すっかり安心した。つまり全く感覚がないまま、胃カメラが終わるのだ。しかしそんなことはなく、私の番になったらいつも通りゲーゲーとても苦しかったのを憶えている。

 胃カメラもつらいけれど、もっとイヤなのは大腸検査。あれを考えると夜も眠れなくなるほどであった。

 が、この10年人間ドックも格段の進歩をしている。精神的にもラクな、快適なところが増えた。数年前から友人の紹介で、あるクリニックに行くのだが、そこは寝ている間にたいていの検査が終わる。そして麻酔から醒めると、先生が画像を見ながら説明してくれるのだ。

 自分の内部をカメラが進んでいくさまをじっくりと見るのは、楽しいか、と言われれば別に楽しくはない。人間の体も、ミノとかハチノスとかあるんだなあと思うぐらい。

 突然話が変わるようであるが、7年ほど前、世界的ミスコンテストを舞台に、小説を書いたことがある。そのため日本での優勝者やファイナリストに何人も会い取材をした。皆さん、その美しいことといったらない。

 が、最近のミスコンの大きな流れとして、単なる美貌やプロポーションで選んではいない、というのがある。いや、それを世間にアピールしなくてはならない、と言った方が正しいか。

 そのためか東大生とか、医大生の方とかがとても増えている。取材をしたファイナリストの中に、元医大生、今は内科医をしている方がいた。この方は内視鏡を専門にしていて、

「ハヤシさん、私は粘膜フェチなんです」

 毎日毎日、いろんな人の粘膜を見るのが、楽しくてたまらないという。お医者さんというのは、そういうものなんだろうかとちょっと驚いたし、この女優さん顔負けの美女に、お尻を向ける男性はかなり恥ずかしいのではないかと心配したものだ……。

落ちていく瞬間

 話がそれてしまった。とにかく今年も内視鏡検査が近づいてきた。1ヶ月前にどーんとダンボールが届く。これを見るとかなり緊張してしまう。

 中には瓶詰めのミネラルウォーター3本、そして1週間前から飲む便秘薬や漢方、そして前日飲む強い下剤のキットが入っているのである。

 注意事項の紙も。

「3日前から、玄米、コンニャク、海草類、ソバ、野菜、果物など、消化に悪いものを避けてください。守らないときちんと検査が出来ません」

 例として、昼ごはんはうどんに、ネギや七味なしとあった。夕飯はご飯にお肉と玉子とある。

 こういう時、

「お鮨を食べればいいじゃん」

 と自分に都合のいいように考える私。いつもなら、出来るだけ炭水化物を減らし、野菜をたくさん摂るようにしているのだが、お医者さんがダメというなら仕方ないだろう。お野菜抜きなら、焼肉かお鮨になるが、前者はキムチやワカメサラダなどタブーなメニューがある。そこへいくとお鮨は、魚とご飯だけ。海苔巻きさえやめればどうということもないはずだ。

 さっそく休日のお昼は、スーパーで焼きサバ寿司を買ってきた。それを食べていたら、シソの葉と昆布を夫が発見。中にはさまっていたらしい。

 野菜と海草だ。まずい。私は自分の大腸にそれらが貼りついている光景を想像してぞっとした。

 そしていよいよ検査の日。昨日の昼から何も食べていない。ダンボールの中に入っていた飴をなめながら我慢する。

 ところで私は今回楽しみにしていることがあった。それは同じクリニックで、人間ドックを受ける友人たちとよく話すあれだ。

「麻酔で意識が遠ざかる瞬間って、気持ちいいんだよね」

「そおなの、先生が話しかけてくれて次の瞬間、自分が落ちていくのがわかるよね」

 私もベッドに横たわり、その時を待っていた。

 しかし今回に限って、意識がはっきりしている。全く落ちていく感じはない。機械の音もちゃんと聞こえている。

「これはマズい……」

 私は焦ってきた。今回に限って麻酔がまるで効いていないのだ。このまま、胃カメラと大腸検査やるのはイヤ。何とかしてほしい。そのうちトイレにとても行きたくなってきた。検査室に行く前に、ちゃんと済ませてきたのにどうしたことだろう。

 人の気配がしたので、私は必死で頼んだ。

「麻酔効かないんですが、とにかくお手洗い行きたくて……」

「とっくに検査終わってますよ」

 気づくと私は個室に寝かされていた。しかし私はずっと覚醒していたはずだ。本当だ。自信をもって言える。こんな不思議なことがあろうか。私の中で時間がワープしている。この春最大のミステリーであった。

 もうあの胃カメラの老人を嗤(わら)うことは出来ない。

イラストレーター=平松昭子

source : 週刊文春 2022年4月7日号

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