先月末、重信房子・元日本赤軍最高幹部が懲役20年の刑期を終えて出所しました。その直後、中東レバノンのベイルートで、元日本赤軍の岡本公三容疑者が人々の前に現れ、ニュースになりました。重信房子は76歳、岡本公三は74歳。どちらも歳をとりました。いまの若い人は聞いたことがないであろう「日本赤軍」とは、どんな組織だったのか。当時の日本社会の騒然たる雰囲気を体感した私として、解説することにしましょう。

 日本赤軍のルーツは、1969年に結成された「共産主義者同盟赤軍派」です。当時の日本は、東京大学や日本大学など全国各地で学園紛争(学園闘争)が燃え盛っていました。

 そもそもは東京大学医学部のインターン制度を改革しようという学生の行為に行き過ぎがあったとして大学が学生を処分したのですが、この中に当時現場にいなかった学生が含まれていたことから、学生たちが反発。大学に抗議して安田講堂に立てこもると、大学当局が機動隊を導入して排除します。これをきっかけに機動隊導入に反対して各学部の学生たちがストライキに突入。一部の学生は再び安田講堂を占拠します。

 一方、日本大学では東京国税局の査察で多額の使途不明金があることが発覚。学生たちが大学に説明を求めて集まると、これを体育会の学生たちが木刀などを持って襲撃します。報道陣の前で多数の学生が血を流し、救急車で運ばれました。これを多くの学生たちは、「大学が使途不明金問題を隠蔽するために暴力で学生たちを弾圧した」と受け止め、次々にストライキに突入します。

 当時はベトナム戦争の最中。アメリカでもヨーロッパ各国でもベトナム戦争反対の学生運動が盛り上がっていました。日本でも佐藤内閣がアメリカのベトナム戦争に協力していると反発する学生たちの抗議行動が続き、全国の大学で、それぞれの大学が抱える課題をめぐってストライキに入っていきます。当初は学生自治会による大会で投票によってストライキに入るのですが、そのうちに「闘う学生たちだけで独自の組織を作ろう」という動きが始まり、各大学に「全学共闘会議」(全共闘)が結成されます。

 これを利用しようとしたのが、いわゆる過激派各派でした。共産主義者同盟や、革命的共産主義者同盟が分裂して生まれた中核派や革マル派です。全国各地で大学がストライキに入り、ベトナム戦争反対集会には数万人が集まります。あたかも「革命の日は近い」というような社会の雰囲気が醸成されていたことから、多くの学生を組織に勧誘し、勢力を伸張させました。いま振り返ると、単なる幻想に過ぎなかったのですが。

 こうして「直ちに武装蜂起すべきだ」という過激な主張をする集団が生まれます。それが共産主義者同盟から飛び出した「赤軍派」でした。

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source : 週刊文春 2022年6月16日号