狂乱の時代から四半世紀。弟は志半ばでこの世を去り、兄は今も裁判を闘っている。もう二度と現れない“バブル兄弟”とは何者だったのか。巨弾ノンフィクション最終回!
長崎県平戸市を代表する「寺院と教会の見える風景」。平戸港から石畳の坂道を上ると、平戸ザビエル記念教会を囲むように建つ寺院の一つが曹洞宗の瑞雲寺である。17世紀に建立された由緒ある禅寺で、門を潜ると左手に「山門建設寄附者御芳名碑」が立つ。
山門はバブル全盛期の1988年4月に上棟式、その4カ月後には通り初めの式が行なわれた。寄附は1人あたり10万円以下がほとんどで、100万円超の寄附者として名前が刻まれているのは2人しかいない。その1人は800万円を寄附した高橋治之。それに続く700万円の寄附者には高橋治則とあった。瑞雲寺は高橋家の菩提寺である。
住職によれば、「イ、アイ、イ」(以下、イ社)グループを率いた治則は、少し離れた江迎町の小学校でヘリコプターを降り、運転手付きのクルマで平戸入りしていたという。
「86年にお父様の義治さんが亡くなられた時には、私の前の住職が導師として東京のご自宅に招かれ、1週間にわたって行なわれた通夜でお勤めをしました。今はもう高橋さんの身内の方は平戸には誰もお住まいではないと思います。最後にお見えになったのは、東京五輪の数年前、治之さんが奥様や息子さん夫婦とお母様の年忌法要に来られた時でした。東京五輪の組織委員会理事の名刺を頂き、食事をご一緒しました。その時、息子さんが『お墓は東京にもあるけど、平戸はルーツだから、ここはきちんと守っていかないと』と話されていたのが印象的でした」
高橋家の先祖代々の墓は、瑞雲寺とは離れた場所で、正面に平戸城を望む高台にある。獣道のような参道を抜けると、竹林のなかに十数基のお墓が収まる広い墓地が姿を現わす。以前は草が生い茂り、荒れ果てた印象だったが、治之は東京拘置所から保釈後、地元の業者に依頼して、草を刈って綺麗に整備を施した。
高橋兄弟は、江戸時代に平戸藩六万石を治めた藩主、松浦家の庶流である志佐家の末裔だが、治則が95年に二信組事件で東京地検特捜部に逮捕されて以降は、松浦家との縁が虚言であるかのような誹りを受けてきた。しかし、かつては高橋家に仕えてきた農家の娘たちが“嫁入り修行”として、平戸から東京の高橋邸に作法や料理を学びに来る習わしがあり、家には“女中部屋”も用意されていた。その様子を幼少期から間近に見てきた高橋兄弟にとって、世間から“にわか成金”としか見られない状況はこの上ない屈辱だったに違いない。治則の逮捕から27年の時を経て、兄の治之もまた同じ轍を踏んだことで、先祖供養への想いに駆り立てられたのだろう。
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source : 週刊文春 2024年8月1日号