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連載ことばのおもちゃ缶

究極の言葉遊びは「短歌」(2)言葉しかなかった。

2016/01/24

genre : エンタメ, 読書

note

 私には言いたいことがなかった。遠足や運動会に対する感想も両親への感謝も、何も言葉に出来ないまま、真っ白な原稿用紙を見つめる幼少期を過ごした。でも今になって思えば、たった一つだけ言いたいことがあったかもしれない。「一緒に遊んでほしい」。私は運動が出来ないだけではなく、手先も不器用だ。なのでレゴブロックとかテレビゲームのようなインドア系の遊びすらも苦手だった。そんな自分が他人と共有して遊べるはずの唯一のおもちゃ、それが言葉だった。言葉しかなかった。だけど言葉がおもちゃであることに、先生も親も気付いてくれなかった。

 私が初めて自作の回文をツイートしたのは、遡ってみたらどうやら2010年1月6日の「中野区行くのかな?」のようだ。そこからちょくちょく回文をツイートし始めたら、短歌の仲間たちからやたらと面白がってもらえた。本当にびっくりした。歌人たちは言葉がおもちゃになりうることを理解してくれた。そういう人種だった。もしかすると私は「一緒に言葉遊びをしてくれる人たちがいる世界に行きたい」と強く願っているうちに、気づかないまま異世界へつながる扉を開けていたのかもしれない。某賞の授賞式で回文スピーチをしてみたら、その異世界はさらに広がった。子どもの頃の私が探し回った末に結局見つからなかった遊び相手になってくれそうな人たちが、相手をしきれないほど現れた。みんなどこに隠れていたんだ。何で札幌市北区あいの里にいてくれなかったんだ。

 昔と違って、今は言いたいことや叫びたいことが、ちょっとだけ出てくるようになった。どうにも逆説的なんだけど、「言いたいことがなくても別に何も悪くないんだよ!」と言いたいのだ。自分の思想や意見なんて表明しなくていい。ありもしない自分をむりやり語るよりも、偶然生まれたヘンテコなものを見て笑えるほうが、生きてて楽しいに決まっている。意味がなく、価値がなく、「面白い」以上の感情を与えない。そういう言葉遊びが理想だ。自分の短歌も言葉遊びの延長線上だから、基本的にはそういうものでありたい。そして何の意味も価値もないものに、人生を賭けてゆきたい。そうでもなきゃ、「パイアントジャンダ」だの「すべるは親父のはげ頭」だのクロスワードパズルだのがめちゃくちゃに飛び交っていた学生時代のノートに、とても申し訳が立たない。

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 一生遊んでやる。一生言葉で遊んで暮らしてやる。言葉に負荷をかけまくって、ぎしぎしに軋ませて、その裂け目から新しい世界へと飛び込んでやる。SNSよりもネットゲームよりもはるかに楽しい言葉の世界に、これからもずっと引きこもってやる。そのつもりで、毎回このエッセイを書き継いだ。職業ワードゲーマーになってやる。それだけが、過去の自分を納得させてやれる唯一の方法だ。

 そして、最後にこれだけは言わせてもらいたい。詭弁の意味で言葉遊びという語を使っている奴。政治家とか学者の発言を相手に「単なる言葉遊びはやめろ」とか言っている奴。言葉遊びをなめるな。詭弁だと言いたいなら最初からちゃんと詭弁と言え。言葉遊びという語を使いたいなら、回文でも一本作ってからにしてほしい。音素単位で言葉と向き合ったこともない奴に、言葉遊びという語を軽々しく用いてもらいたくはないのだ。

 それではここまで読み切ってくれたあなたのために、この言葉を捧げます。「眠たいが、眠ると太る。胸が痛むね」。ただの回文ですよ。何の意味もメッセージもない、ただの回文です。本当にありがとうございました。

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