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連載昭和の35大事件

「日本の金本位制度」終結の裏側 “三井のドル買い事件”が引き起こした「血まみれの政変」

自ら掘った溝に転落した井上準之助蔵相

2019/09/29

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, 経済, 政治, 国際, マネー, 企業

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ドル買い決戦「12月15日」まで持たなかった若槻内閣

 しかしそれはそれにしても、12月11日の夜半突如として起こった政変が、当時ドル買い合戦で落目に向った“買い方”と、合戦の飛沫を受けて苦しんだ一般産業界とにマルで無関係であったとは考え難いのである。

 ここで特に重要なことは、ドル買い合戦に勝利の日近しと見た政府側では、既約定の解け合い(解約)は12月15日までの申込みに限ると決定した。つまり「15日までにキリキリ耳を揃えて現金をもって来い」と強引な態度を宣言した。かようにして「12月15日」はドル買い合戦の決戦の日となり、経済界は異常の緊張に包まれたのであった。

 そうした決定が12月10日の新聞に伝えられた次の日内務大臣安達謙蔵は前から提唱していた「協力内閣」の主張について閣議を求めた。そして閣内の大勢が自説に従わぬと知るや中途退席して自宅に帰り、湯にはいりドテラを着込んで一杯やり乍ら、再三の呼び出しにも応ぜず、わざわざ出向いた辞退勧告の使をも拒否した。処置なしの若槻内閣は遂に夜半に至って総辞職を決定、翌12日早朝辞表を奉呈した。かくて井上は決戦の「12月15日」を待たずして退陣を余儀なくされ、ドル買い合戦は政府側の大敗北となった。

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若槻礼次郎 ©文藝春秋

安達謙蔵はなぜ強引な態度に出たのか?

 では安達は何故に斯様な強引な態度をとったか。内閣倒壊の因をなした「協力内閣」とは何を意味するものであったか。また誰が安達をしてかかる態度をとらせたか。これらは一切謎である。若槻自身「わからぬ」とその自伝の中に書いている。だが「協力内閣」の主張に押し倒された若槻内閣の次に出たものは、協力内閣ならぬ少数の政友会単独内閣であった。安達は反対党政友会のために働いたと同じ結果になった。

 安達謙蔵は旧同志会、憲政会、民政党とずっと党の幹部であり、若槻内閣の頃からは副総理格であった。浜口内閣にも内務大臣として重きをなしたが、大蔵大臣として入閣した新入り党員の井上準之助の勢力が急速に伸びるに連れて、井上との間に深い溝ができた。「協力内閣」の主張が果して安達自身のものであったかどうかは、安達の行動とその前後の政治的動きとを見れば誠に疑わしいが、当時の政情が政民両党の「協力」を必要とするものであったとは判る。