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連載昭和の35大事件

「一人一殺」金解禁をめぐる“三井のドル買い事件”が招いた恐ろしすぎる日本テロの序章

経済問題が「五・一五事件」「二・二六事件」へつながっていく

2019/09/29

解説:ザイバツの「自由な経済活動」がテロ誘発の風潮を招いた!

「ザイバツ」と聞くと何を想像するだろうか。辞書には「財閥 大資本・大企業を支配する人たち(の排他的集団)」とあり、付け加えて「俗に、金持の意にも用いられる」とある(「新明解国語辞典」)。「『財閥』という言葉は、もともとは単に『富豪』『金持ちの一族』を意味するものだったが、昭和初めごろにジャーナリズムで盛んに用いられるようになった」「この時代には財閥という語は、ある種マイナスのイメージを与えるものであった」と、宮本又郎「日本の近代11企業家たちの挑戦」は書き、財閥の定義を「富豪の家族・同族の封鎖的な所有の下に成り立つ多角的事業体で、その多角化された事業分野はそれぞれかなりのビッグビジネスである」としている。

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山陽鉄道から王子製薬の社長まで 華麗なる「三井財閥の人脈」

 その財閥の発生はそれほど古くない。江戸時代の豪商が、明治になって華族・士族に家禄の代わりに支給された金禄公債を取り扱ったのが始まりだった。その中で時代の荒波に生き残ったのが三井、安田など。さらに、明治政府が手掛けた紡績、造船などの官営事業が行き詰まり、民間に払い下げられた際、これを引き受けたのが三井、三菱や浅野総一郎、古河市兵衛、大倉喜八郎といった実業家たち。さらに、その後の日清・日露戦争などで、鉱山、製鉄、機械、化学、海運などの軍需産業が隆盛となり、それが新しい技術と産業を育て、手掛けた実業家が財閥の仲間入りをした。

 中でも三井財閥は、伊勢(現三重県)松坂から江戸に出て呉服店「越後屋」(現三越)を営んだのが始めで、その後、西郷隆盛から「三井の大番頭」と揶揄された元勲・井上馨の後ろ盾もあって、一時の危機を乗り切り、銀行(三井銀行)と貿易(三井物産)を両輪に「三大財閥」の1つになっていく。「組織の三菱」に対して「人の三井」といわれるように、その歴史に名を残した経済人は驚くほど多士済々。福沢諭吉の甥で山陽鉄道の社長などを務めた中上川彦次郎、三井物産を育てた益田孝(「鈍翁」という号で呼ばれた)、王子製紙の社長などを歴任した藤原銀次郎……。今回登場する池田成彬と、やがて暗殺される団琢磨もその人脈に連なる「三井の人」だ。

団琢磨射殺を伝える朝日新聞

紙幣と金の引換を自由にする「金本位制度」

 現代の私たちにとって金本位制とは、名前を聞いたことはあっても、どんなことなのか、なかなか理解し難い。通貨(紙幣)と正貨(金)の兌換(引き換え)を自由にすること。つまり、紙幣を日本銀行に持って行けば、相当する金貨と交換してくれる制度。金を基準にして各国通貨の交換レートを固定することが、国際貿易の拡大と国内経済の安定した発展に重要だと当時は考えられた。第1次世界大戦で体制が崩れて変動相場制になったが、戦後、米英など欧米各国が復帰。日本でも1917年に金輸出禁止措置をとって以来、13年間に10人の蔵相が取り組んだが、関東大震災などのために果たせないままになっていた積年の課題の難事業だった。通貨と金との兌換と、金の輸出入を自由にして、戦後のインフレで低下した貨幣価値を金貨の水準に回復し、為替相場を引き上げるのが狙いとされた。