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ドル買い事件が口火となった「血盟団」によるテロ行為

 もう1つ、このドル買いの決定的な影響として挙げられるのは、直接的に「血盟団」によるテロ行為に結びついたことだ。1932年2月9日、民政党の選挙委員長になっていた井上準之助は、衆議院議員選挙の応援演説に訪れた東京都内の小学校で、背後から男にピストルで撃たれて死亡した。男は小沼正。「現在の農村の窮状は井上の責任」ということしか供述しなかった。そして3月5日、東京・日本橋の三井本部の表玄関で、到着した三井合名理事長で財界の指導的立場にあった団琢磨がピストルで射殺された。撃った男は菱沼五郎。捜査の結果、2つの事件の背後には、右翼団体「血盟団」の存在があることが判明した。

 永井荷風は日記「断腸亭日常」の3月5日の項にこう記している。「快晴。春風嫋々たり」「夕刊新聞を見るに、今朝十一時頃、実業家・団琢磨、三井合名会社表入り口にて銃殺せられし記事あり。短銃にて後より肺を打ち抜かれしという。下手人は常州水戸の人なる由。過日、前大蔵大臣・井上準(之助)を殺したる者も同じ水戸の者なる由。元来水戸の人の殺気を好むは安政年間、桜田事変ありてよりめずらしからぬことなり」

井上準之助前蔵相射殺を報じた朝日新聞

 血盟団は、井上日召を盟主として茨城県に本拠を置き、「一人一殺」をとなえるテロ組織。井上日召も出頭して裁判にかけられたが、彼らは異口同音に「政党、財閥と特権階級が結託して私利私欲を図り、国利民福を顧みず、腐敗堕落の極にある」と主張。その例証として「最近続出する多くの疑獄事件、昭和6年末のドルの思惑買い、ロンドン海軍条約に関する統帥権干犯問題」などを挙げてこれを痛撃した。ただ、中島岳志「血盟団事件」によれば「彼ら(血盟団メンバー)が不信感を抱いていたのは、既成政党全般だった」「民政党の緊縮財政・デフレ政策が問題なのでもなく、政友会の金融政策が問題なのでもなかった」。池田成彬も有力なターゲットで、襲撃担当となったメンバーが三井本部など身辺を監視したが、そこで団琢磨を目撃し、警戒している様子がなかったため、最終的に菱沼が襲撃することになったという。

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 井上日召は、陸軍軍人を中心としたクーデター未遂事件である「十月事件」に関与。動きは陸軍や海軍の軍人、民間人を巻き込んで膨れ上がり、「五・一五事件」「二・二六事件」へとつながっていく。農村の疲弊、娘の身売り、小作争議、労働争議など、悲惨な社会状況と対比して政党と財閥の腐敗が声高に語られ、やがて天皇を取り巻く「君側の奸」攻撃へと発展。要人を対象としたテロ行為が頻発するようになる。ドル買い自体が正当だったかどうかは別にして、そうした財閥の行為とメディアの報道によって「財閥けしからん」という庶民感情が醸成され、それを利用した形でのテロやクーデターを誘発し、国民も容認する風潮を作り上げる一因となったことは否めない。これ以降、「もの言えばくちびる寒し」の空気が社会を覆い、自由な発言が目に見えて減っていく。

井上日召 ©文藝春秋

「いまも旧財閥系企業が産業・金融の中枢を占めている」

 池田成彬はその後、「財閥の転向」を図る。「日本の近代11企業家たちの挑戦」によると、それは「三井を世上の攻撃から防衛することであった」。

 (1)財団法人「三井報国会」を作り、公共事業・社会事業に寄付

 (2)三井関係企業の株式一般公開

 (3)「筆頭理事・参与理事65歳」など、役員の定年制実施。

 自身は、1937年の林銑十郎内閣に蔵相として入閣。「軍(部)財(界)抱き合い」に踏み切った。全てが三井の延命のためだった。

 財閥は戦後、占領統治を行ったGHQ(連合国軍総司令部)によって解体されたように見えた。しかし独立後、再び再編され、事実上復活し、企業ごとに離合集散を繰り返しながら、現在も生き続けている。創業家ファミリーはすっかり表舞台から消え去ったが、「いまも旧財閥系企業が産業・金融の中枢を占めていることに変わりはない」(久保田晃・桐村英一郎「昭和経済六十年」)。まるでそれ自体、意思を持った有機体のように。

本編「三井のドル買い事件」を読む

【参考文献】

▽宮本又郎「日本の近代11企業家たちの挑戦」 中央公論新社 1999年
▽朝日ジャーナル編「昭和史の瞬間(上)」 朝日選書 1974年
▽テレビ東京「証言・私の昭和史(1)昭和初期」 旺文社文庫 1984年
▽井上準之助「金解禁決行に当たりて」=井上準之助論叢編纂会編集発行
「井上準之助論叢第3巻」1935年=所収 
▽坂野潤治「日本近代史」 ちくま新書 2012年 
▽中村政則「昭和の歴史(2)昭和の恐慌」 小学館 1982年
▽井上準之助「金再禁止と我財界の前途」=「井上準之助論叢第1巻」所収 
▽一万田尚登「人間と経済」 河出書房 1950年
▽柳沢健編、池田成彬述「財界回顧」 世界の日本社 1949年 
▽アンドル・ゴードン「日本の200年」 みすず書房 2006年
▽中島岳志「血盟団事件」 文藝春秋 2013年
▽久保田晃・桐村英一郎「昭和経済六十年」 朝日選書 1987年