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「世界恐慌の嵐に向かってわざわざ雨戸を開いた」

 しかし、1930年1月11日、金解禁は強行された――。いま残されている解禁当日の井上蔵相のラジオ放送原稿「金解禁決行に当たりて」を読むと、「金解禁をしても、緊縮財政と国民の消費節約を続けなければ、景気回復は難しい」というような弱気なニュアンスがうかがえる。これについて石橋湛山は「政府は多年の懸案であった金解禁は、これを実施したが、その準備は整うてはいない」「幾多の困難が続出するものと期待せねばならぬ。その困難凌駕は国民の責任だ。その凌駕ができなければ、せっかくの金本位の復活も、またつぶれるかもしれぬぞといった態度である」と批判した。結果的に金解禁は「4人の侍」が主張した通りの経過をたどり、日本経済は未曽有の大不況に見舞われることになった。

金解禁を報じる朝日新聞。「金解禁」の文字を書く井上準之助蔵相の写真も

 いま、どんな歴史や経済史の本を読んでも、そのタイミングでの金解禁の評価はボロクソといっていい。「それにしても、井上準之助蔵相の決断のタイミングは常軌を逸したものであった。今日でも記憶されている『暗黒の木曜日』は1929年10月24日で、大蔵省が金本位制復帰の省令を出したのは、その約1カ月後の11月21日である」(坂野潤治「日本近代史」)。当時言われたのは、「浜口内閣の金解禁は、世界恐慌の嵐に向かってわざわざ雨戸を開いたようなもの」だった。ちなみに、この時発行された「此券引換に金貨百円相渡可申候」と書かれた百円札が、聖徳太子が紙幣に登場した初めだった。

大不況に見舞われても“強気だった”井上蔵相の真意とは

 金解禁の影響は、まず巨額の金の流出として表れた。解禁後5カ月で2億2000万円、2年間では計約8億円の正貨を失った。「解禁時、在外正貨を含めて13億6000万円あった正貨は、23カ月後には4億円を残すにすぎなかった」(中村政則「昭和の歴史(2)昭和の恐慌」)。

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金の流出を伝える朝日新聞

 株価・物価が暴落、工業・農業生産が低落、輸出入が不振になり、国際収支の悪化が進んだ。野党政友会は失政だとして内閣を追及したが、井上蔵相はなお強気だった。その姿勢は1931年12月に政権が交代し、蔵相を辞任した後も変わらず、1932年2月に暗殺される直前に発表した論文「金再禁止と我財界の前途」でも、犬養毅内閣発足直後、高橋是清蔵相が金輸出を再禁止したことを厳しく批判。「日本の財界の根本には、金本位を維持するに困難なる事情はさらになかった」と強調している。

 日銀時代の後輩の一万田尚登・元日銀総裁は著書「人間と経済」で、金輸出再禁止に踏み切らなかった井上の心中をこう推測している。「当時の政治情勢は満州事変の勃発により、軍の勢力が増大し、ほとんど政局を左右する観を呈していた。この時に当たり、金本位を離脱することは、ほうはいたる軍備拡張要求に対し、安易なる道を与え、極めて危険であるとせねばならぬ。軍を押さえて戦争に赴くことを回避するためには、たとえ金の流出、減少をきたすとも、金本位制を固く守り、軍費の無限の増大を防がねばならぬとの堅い信念に基づくものではなかったか」。これも永遠の謎だが……。