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すべてが恐慌のために窮乏化しているなかで

 そして、本編にあるドル買いの嵐が起きる。詳しくは本編にあるが、柳条湖事件で満州事変が勃発したのを挟んで1931年9月末まで金輸出再禁止を見越したドル買いが一気に激化した。これについて池田成彬は戦後の「財界展望」での小汀利得のインタビューに、経緯を詳細に説明した文書を作って提示。「ドル買いは思惑的なものでなく、金額的にも正貨流出総額の約1割にすぎなかった」「イギリスとの為替取引で、イギリスが金本位を停止したため、自衛上必要限度のドル買いの必要を生じ」たためだとあらためて弁明した。本編も「ドル買いは純然たる経済問題であった」「天下晴れての公然たる商行為」と書き、池田成彬=三井寄りの見解を示している。

池田成彬 ©文藝春秋

 これに対し、大方の見方は次のようなものだった。「日本の財閥系銀行は、経済的には抜け目がないとしても、政治的には有害なかたちで行動した。銀行の経営者たちは、政府としてはこの金本位制復帰政策を放棄し、円を引き下げざるをえないはずだということを、すばやく見てとった」「銀行は、ドルを売って安くなった円を買い戻すことにより、保有資金をいともたやすく倍増できたわけである。社会では、資本家と政党内の資本家の盟友たちについてはほかの人々すべてが恐慌のために窮乏化しているなかで、国を売って多額の利益をあげた強欲で利己的なけしからぬ輩だ、とする見方が広まっていたが、銀行の利潤追求行動は、そうした資本家批判の影響力をますます強めた」(アンドルー・ゴードン「日本の200年」)。1931年11月2日には社会民衆党の青年同盟メンバーらが三井銀行を襲い、12月25日には同党が三井、岩崎(三菱)、住友3家に決議文を突き付けた。

「ドル買に憤激と称し三井銀行を襲ふ」(朝日新聞)

「粉飾決算を行った痕跡が認められる」

 当時外国為替を扱っていた三井・三菱・住友3行の1931年下期の損益計算書では、三井銀行が1230万円、三菱銀行が670万円、住友銀行が138万円の『純損金』を出した。これについて池田成彬は「財界回顧」で、自分が三菱の串田万蔵と住友の八代則彦に働きかけたためだったと認めている。「我々の内部でもそれを発表することについて不賛成の者もあったが、私はどうしても出す、いい加減なことをしてごまかしていくということはいかん」と説得したという。

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 しかし、「昭和の歴史(2)昭和の恐慌」は、「3行の損益計算書を子細に検討すると、いずれも過大な『有価証券価額償却』『外国為替売買損』を計上しており、粉飾決算を行った痕跡が認められる」とする。三井銀行は翌32年上期には外国為替特別利益として2210万円余の利益を上げたが、差し引き約1000万円の利益は一時利益に組み入れず、準備金として処理。以後、決算ごと若干ずつ組み戻して調節したという。同書は「社会的なドル買い非難をかわすためであった」「三井銀行は右のような帳簿上の操作を行って、損失だけを公表し、利益を秘匿したのであった」と指摘。「これまで、池田成彬の証言を鵜呑みにして、ドル買いを三井銀行の自衛措置とみなすのが通例であったが、この点は再考の余地がある」と主張している。