昭和年、世界に名を謳われたデ杯選手が、突如マラッカ海峡に投身自殺した。先輩の語るその真相――。

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「佐藤選手の投身自殺」(解説を読む)

 庭球選手――佐藤次郎と言っても、昭和4、5年から9年に亘って活躍した選手であるから、若い世代の人達には馴染みの薄い名前であろう。本題に入る前に、一応、佐藤の経歴を略説して、彼の偉大さを御披露し、古い方方には当時の記憶を新たにして戴くことにする。

 群馬県渋川中学を出て早稲田大学に入り、当時の学制で予科2年の頃から、既に、早大佐藤の豪球は斯界の話題の一つであった。大きなバック・スウィングで打つフォアハンドは、巌頭の大鷲が羽搏きするにも似た偉観であった。然し、全日本の名手を殆んど打倒しながら、反面、格下のプレーヤーに自滅し終る脆さもあった。荒削りの強打者であったためにフラフラ球で粘ってくるような相手には、タイミングが合わず凡失に終始して収拾がつかなかった恰好だった。

1932年10月の朝日新聞に掲載された佐藤選手の勇姿

死の旅路への発足でもあった

 謂わば、未完成で、彼のテニスを創造する一歩も二歩も手前だったわけである。偶々この年の秋、世界チャムピオンたる仏蘭西のコシェーが、時めく四銃士の一人と称された、ダブルスの名手ブルニオンと、あとは二流選手であったがランドリー、ロデルを帯同して日本を訪れた。コシェーの自在な、歯切れのいいテニスを見て、一大感銘を受けたのは佐藤であった。頑丈ではあるが、小柄なコシェーが、後陣の打合に、中間の捌きに、サテはネット際の鮮やかなヴォレー振りに、佐藤は心酔した。永く探求していたテニスの最上のモデルを見て、彼の血潮はたぎった。そうして彼は敢然としてグリップを変えた。コンティネンタル・グリップ(ラケット面に添って真直ぐに握るグリップで殆んど握り替えずにフォアハンドはラケットの左側で打ち、バックハンドを右側で打つ……)を変えればスウィングも多少変えなければならないことを知らなかった彼は、苦難の行進を続けねばならなかった。それに伴って、異った筋肉を使うことの難しさも知った。然し、一念凝った彼は、瞼に浮ぶコシェーのイメージを手引きとして、酷暑、厳寒もものかは、一路目指す目標に向って驀進した。

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 彼の天分、頑健な肢体、駿足は、更に彼の努力によって研磨され案外に早く、1年そこそこで宝玉の光を発し始めた。昭和5年の秋既に全日本選手権を獲得し、6年度のデ杯選手として選ばれたのである。

 これが名選手佐藤次郎の出世の首途であると同時に、死の旅路への発足でもあったのである。そんな大選手に成らなければ、あたら命を捨てずに済んだであろうのに……。運命は皮肉である。