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スポーツマンとして最高の栄誉

 明けて昭和7年のデ杯チームは、三木を主将に佐藤、桑原の陣容。この年はデ杯戦、トーナメント共に佐藤は名もなき選手にも傷ついて不振。昭和8年(1933)こそが、世界の佐藤としてのし上った、彼の生涯に於ける最上の年だった。パートナーに布井(故人)を得たことも、幸運の開けた一大要因であった。ウイムブルドンでは、佐藤、布井組で決勝戦まで残り、コシェー、ブルニオン(仏)に4セットの激戦後敗れたが、全世界の名選手を網羅し、ジョージ五世陛下御観覧の下で世界選手権を争うという、スポーツマンとして最高の栄誉を担ったのである。シングルスでも、佐藤は準々決勝で、オースティン(英)を屠り、準決勝でクローフォード(濠)に善闘している。世界最高のトーナメントで単、複、併せての健闘は、世界を瞠目させ、文化日本の品位を高めた功績は大きい。当時は未だ、水上日本も、跳躍日本も世界的に進出していない時代で、その上、平和の最高潮にあったのであるから、スポーツが政治、外交を上廻るトピックスを提供していたと思えば、佐藤・布井の活躍が、如何に絢爛たるものであったかお察しを乞う。

佐藤次郎選手

 この感激は更に続いた。デ杯、対濠洲戦で敗れはしたが、布井はマックグラースに一勝し、佐藤は前年度ウイムブルドンの覇者クロフォードに金星を挙げたのである。

無失策に近いコントロール

 何故、佐藤のテニスが斯のように高度のレヴェルに到達したか一言触れたい。前述したコンティネンタル・グリップの確立が、その基盤となっているのは勿論であるが、その当りの良さ、深さ、プレースメントの細かさ、加えて、それを駆使する駿足、フットワークのよさが、殆んど無失策に近いコントロールを創造していた。エラーのない佐藤を負かすには、得点に次ぐ得点を以てしなければならなかった筈である。どんな大選手の試合経過を見ても失点と同数の得点を挙げることは至難の業である。然かも佐藤を破るには、この難業を成就しなければならなかったのである。

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 彼は当代の名手を必ず一度は負かしたが、ボロトラだけには敵わなかった。

 佐藤の一番弱点と看做されたサーヴィスを巧みにリターンして、リシーヴ側を全部ネットに打って出たボロトラの頭脳的作戦と、彼の優れたヴォレー技術には、佐藤も兜【かぶと】をぬいだ。

 佐藤が『私のテニスのキャリアでどうしても勝てなかった人が三人ある。ボロトラに、牧野(商大出)、喜多山(慶大出)の3人だ。』と、生前言ったことを覚えている。彼が大選手への途上、牧野や喜多山に敗れたと言うのは愛嬌があるが、ボロトラに三敗したまま、永久に復讐の機を失ったのは、彼の痛恨事の一つに違いない。