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エア・ラインのない当時は、欧洲航路で

 現在デ杯保持国は米国であるが、昭和2年(1927)から6ケ年間は仏蘭西であったので、デ杯の中心は勢い欧洲に在って、日本濠洲は元より、南米諸国からも欧洲ゾーン参加の傾向にあった。参加国が欧洲ゾーンだけでも30ケ国を超え、蜿蜒3ケ月に亘るスポーツの大行事だったので、選手一行の日本出発も2月末か、3月始めを例としていた。エア・ラインのない当時は、欧洲航路で神戸――マルセーユが一ケ月を若干超えることもあった時代である。

 五月初旬から開始される一回戦に間に合わすためには、1ケ月の練習期間を見越しても当然早春の出発を余儀なくされていた。

 昭和六年の、佐藤の初航海は、私が主将として、否、マネージャー兼ガイドとして靖国丸の一等船客として納った。(川地選手は一航海後から参加した。)同船では吉田前首相が伊太利大使としてローマに、故斎藤米大使が参事官としてロンドンに赴任されるのと同行だった。或る日プロムナード・デッキで吉田さんは、私に、佐藤の態度が余程気に入られたと見えて、外務省でも、ああいう風な、サウンドな(健全なといふ意味に解した)タイプの人が欲しいですね、と沁々とした口調で仰有った。佐藤は吉田さん好みの大外交官にも成れたかもしれぬ。

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佐藤次郎

 デ杯戦の1回戦はユーゴと当っていた。ユーゴのサグレブまで出掛けて、日本よりも後進国の感じがしたので気をよくしたのか、佐藤の気分もいくらか落ち着きを見せてきた。ユーゴに勝ちエジプトに楽勝して3回戦への出場資格を得た時分は、先ず大体のフォームを作り上げていた。

日本恐ろし”の予想

 3回戦で英国と相見える前に仏蘭西選手権大会がスケジュールされていた。佐藤はこの大会で大活躍をした。私はラスト・エイトでブッスュー(仏4位)に5セットで敗れたが、佐藤は同じラウンドでヴァンライン(米6位)を破って準決勝に残り、ボロトラ(仏2位)に五セットの大接戦を演じた。初陣でこの戦績は破格的なもので、ペリー、オースティンを有つ英国ですら、日本とのデ杯3回戦を控えて“日本恐ろし”の予想をしていた由。

 然し、実際には佐藤が1週間前から腹痛の断続で、零敗の憂目を見た。

 然し、佐藤は、その冬、原田、布井と濠洲に遠征して、クロフォード、ホップマンを一度ずつ破り、早くも世界的名手としての鋭鋒を現わし始めたのである。