号外まで出る騒ぎで、この平和の大事件は世界のスポーツ界にまで拡がった。
特に各国庭球協会や曽て試合をしたことのある著名選手達からの弔電は後を絶たなかった。
外国の大新聞も、在りし日の彼の功績を讃えて哀惜の辞とした。特にウイムブルドンのお膝元英国では、彼の印象も深く、第一面のトップ記事に扱った新聞もあった。
1、2その論評をはしょって写してみるとロンドン・タイムス……『佐藤選手の死は全世界の庭球選手に対して一大衝動を与えたものである。ウイムブルドンのセンター・コートで二度と彼の素晴しいプレーの見られないことは斯界の痛恨事である。』
デイリー・テレグラフ……『佐藤は頑張り強い選手であったが、常に礼儀正しいフェアプレーを忘れなかった。同君の死によってスポーツ使節は国際関係親善に多大の貢献をしてきたことの思いを特に新にする。』
奇言奇行が眼に余った
昭和8年の輝やかしい戦績を土産に、凱旋将軍として、その秋に日本に帰って来た佐藤は元気がないのに驚いた。得意を満面に輝やかせていたとしても、誰も訝しむ者もないのに、心なしか悄然と見えて、敗軍の将を想わせた謙虚な態度で奥ゆかしいと思うのも束の間、彼の態度に異変があるのに心を寒くした。ちょっと会食をしても踊りに行っても、奇言奇行が眼に余った。一例を挙げれば、上衣のポケットにはシガレット・ケース、ライターを入れ、ズボンのサイド・ポケットから7つ道具付のナイフ、バック・ポケットからはウィスキー瓶、私が煙草に火をつけると、何処からともなく小さな灰皿を出してくれた。余りの持物の多さに驚いている矢先に、灰皿まで飛び出しては、正にギョッである。これはいけない、と思ったが、私もまだ若い時分だから、何に起因するのか見当もつかない。口さがない連中は、頭にきているね、バイ毒かな? とか神経衰弱の昻じたやつかな?……などと勝手な流説をバラまいた。
偶然にも、ある日、この正体に触れたような気がした。彼と共に某氏に招じられて応接間で話している時、当家おかかえの看護婦さんが私を呼んだ。『次郎さんは何か“シモ”の病気をやっていらっしゃるんじゃないですか。便所に血がついていますよ。』『“シモ”って何処だい、痔のことか。』と反問すると彼女は首を振った。『それじゃ念のために訊くけど、それを次郎と断定する証拠があるのか?』と私は詰め寄った。『次郎さんの出た後へ、直ぐ便器の消毒に行ったんですもの、間違いはありません。それに、いらしてからも、もう3度目ですよ。』これには参った。便所へ行く数まで読まれたのでは、先ず99パーセント間違いはあるまい。次郎に単刀直入に『お前トリッペルをやっているのか?』と質問する決心をするのに小一時間もかかったであろうか。