「井上緊縮財政」で進められた金解禁政策
「満州某重大事件」と呼ばれた張作霖爆殺事件の処理などをめぐって田中義一内閣が総辞職した後の1929年7月、第2党だった民政党の浜口雄幸総裁が内閣を組織。その特徴は、幣原喜重郎外相による対中国などとの「幣原協調外交」と、井上準之助蔵相の「井上緊縮財政」だった。内閣が公表した十大政綱に「金解禁」を掲げ、井上蔵相はその必要性を、全国を回って国民に訴えた。「金解禁――全日本に叫ぶ」というパンフレットで自信満々にこう述べている。「金解禁問題の解決こそは、行き詰まれる我が国の経済的安定に絶対必須の最大要件であると、私は深く信じている」。それは対立政党の政友会が金解禁に否定的だったことを意識した、二大政党制下の政治戦略でもあった。
「金解禁をやれば恐るべき不景気が到来する」
関東大震災以後、不況が続く中、首相、蔵相とも「金解禁で景気は必ずよくなる」と繰り返し主張。国民は大きな期待を寄せ、解禁直後の衆議院議員選挙でも民政党内閣を圧倒的に支持した。朝日ジャーナル編「昭和史の瞬間(上)」には「政府の誇張したPRに乗った国民は、不況にしびれをきらした『藁をもつかむ』気持ちから、『金の解禁立て直し 来るか時節が手をとって』と『金解禁節(ぶし)』まで口ずさみながら、金解禁の将来をバラ色にぼかした目で見つめていたのである」と書いている。時あたかもエロ・グロ・ナンセンス真っ盛りの時代だったが、本当にそんな歌がはやったのか……。
それに対して、「現時点で金解禁をやれば恐るべき不景気が到来する」と反対の声を上げたのは、「東洋経済新報」主幹の石橋湛山(のち蔵相、首相)、「中外商業新報」(現日本経済新聞)経済部長の小汀利得ら、「4人の侍」と呼ばれた民間の経済ジャーナリストたち。特に法定の為替相場である「旧平価」での解禁は、現実の為替相場の「新平価」より約15%の円切り上げになるため、「旧平価で解禁すれば物価が下落して不況色が一段と強まり、ひ弱な体質の日本経済はひとたまりもない」と強く警告した。小汀は戦後、テレビの「時事放談」での、細川隆元氏との掛け合いで知られたが、かつて「証言・私の昭和史(1)昭和初期」で、金解禁について「日本の経済学会も経済界も、ともに認識不足であったということに間違いの元があったんです」と言い切っている。