文春オンライン

“にほんたいいくだい”だった「日体大」は、なぜ“にっぽんたいいくだい”と読むようになったのか。

『大学とオリンピック1912-2020』#2

2020/10/08
note

 72年ミュンヘン大会ではこれまでオリンピックに縁がなかった大学の学生が出場している。

 広島商科大(現・広島修道大)から初めて出場した選手が金メダルを獲得した。水泳平泳ぎ代表の田口信教である。中学、高校時代から大会に出れば優勝していたが、水泳の強い早稲田大、中央大、日本大には進まず、地元の大学で鍛えた。大学卒業後、国立の鹿屋体育大の教員となる。2004年アテネ大会では、同校での田口の教え子、柴田亜衣が自由形で金メダルをとっている。

 大正大からは学生2人がカヌー代表として選ばれている。その後、92年バルセロナ大会まで毎回同校出身者が選ばれたが、それ以降は新興勢力の駿河台大などに代表の座を譲った。やがて長い時を経て、2020年東京大会で、大正大OB、水本圭治がカヌー代表に内定した。7大会ぶりの出場に、大学は久しぶりに盛り上がっている。

ADVERTISEMENT

「にほん」から「にっぽん」へ

 1976年のモントリオール大会の大学生+大卒者で日本体育大が初めてトップになった。10競技に代表を送り出している。ランキング上位校の日本大、中央大、早稲田大は出場競技に偏りが見られたが、日体大はバランスが良い。体育大の強みで、各競技に運動能力に秀でた学生が集まり、さらに優れた指導者が揃っていたからだ。日本体育大は64年東京大会から代表を多く出すようになった。

1976年モントリオールの出身大学表

 現在、日本体育大の正式な読み方は「にっぽんたいいくだい」である。開学時、「にほん~」だったが、81年に読み方を変更した。その理由はオリンピックと関係があるようだ。

 大学史に興味深い記述がある。

「昭和39年の東京オリンピックの招致は日本のスポーツを飛躍的に発展させ、体育教員養成機関=日体大のスポーツの発展も促した。このオリンピックの後に、『日本』(にほん)体育大学は『日本』(にっぽん)体育大学としてその呼称を改めたことからも知られるように、日体大に及ぼしたオリンピックの影響は大きかった。(略)東京オリンピックで世界に知れ渡った『NIPPON』を採れば、日本体育大学を世界に知らしめるのに好都合であるとする判断が働いたようである」(『学校法人日本体育会百年史』1991年)

©iStock.com

 76年大会の代表で少数派の大学生を紹介しよう。自転車競技代表に日本大の小笠原嘉(ただし)、小笠原義明、岡堀勉が選ばれた。3人とも青森県の八戸電波高校(現・八戸工業大学第一高校)出身である。同校は72、74、75年に全国高等学校総合体育大会自転車競技大会で優勝しており、この頃のメンバーが日本大を強くしたわけだ。

 さらに日本大にはレスリング代表の谷津嘉章がいた。のちにプロレスラーとなり、ジャンボ鶴田と「五輪コンビ」を組んでいたことがある。

 アーチェリー代表で同志社大の道永宏は銀メダルを獲得している。大学2年(19歳)の時だ。両親ともにアーチェリーの選手で幼少の頃からアーチェリーに触れていた。

 一方、クレー射撃代表で30代半ばの選手がいた。麻生太郎・元内閣総理大臣、現・財務大臣である。麻生は学習院大出身で当時、麻生セメント社長を務めていた。

 なお、日本大の岡堀勉、谷津嘉章は、80年モスクワ大会の代表にも選ばれる。しかし、日本はボイコットしたため、彼らは同大会に出られなかった。

“にほんたいいくだい”だった「日体大」は、なぜ“にっぽんたいいくだい”と読むようになったのか。

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー