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“にほんたいいくだい”だった「日体大」は、なぜ“にっぽんたいいくだい”と読むようになったのか。

『大学とオリンピック1912-2020』#2

2020/10/08

 オリンピック日本代表は高学歴社会である。戦後の企業スポーツ隆盛の時代へ移ってもなお、大学生オリンピアンの活躍は話題を呼ぶ。教育ジャーナリストの小林哲夫氏の著書『大学とオリンピック1912-2020』(中央公論新社)より、各大会で活躍した学生選手を紹介する。(全2回のうち2回目。1回目を読む)

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サッカー代表が表す大学生の盛衰

 オリンピック日本代表は高学歴社会である。

 1952年ヘルシンキ大会から60年ローマ大会までの3大会では、大学生の代表は4割を超えていた。当時は、各競技で学生が社会人よりも強かったことによる。

 しかし、64年東京大会から大学生の比率が低くなり、72年ミュンヘン大会から2016年リオデジャネイロ大会まで一割台が続いている。この頃になると企業やクラブチームなどで社会人選手の育成が強化され、大学生は社会人に太刀打ちできなくなった。野球はプロ野球、サッカーはJリーグのメンバーで占められ、大学生の出番はなくなる。

 大学生+大卒の比率は大会によってまちまちである。68年メキシコシティー大会まで男子サッカーは9割以上が大学生+大卒で占められていた。たとえば、64年東京大会において早稲田大関係者が華々しい活躍を見せた。学生の釜本邦茂(日本サッカー協会顧問)や森孝慈(元日本代表監督)、OBの川淵三郎(Jリーグ初代チェアマン)や宮本征勝(Jリーグ監督を歴任)など、錚々たるメンバーがいた。

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 しかし、日本のサッカーはしばらく低迷が続き、68年大会を最後に、オリンピックに縁がなかった。96年に7大会ぶりに出て、それ以降、今日まで連続出場を続けるが、大学生+大卒の代表は1~2割程度になってしまう。すでにJリーグが発足しており、高卒でプロになる選手が多く、彼らが大学生を押しのけて代表に選ばれたからだ。大学生は数えるばかりで、大卒も2000年シドニー大会の宮本恒靖(同志社大)、08年北京大会の長友佑都(明治大)など少数派だった。

東高西低の中、健闘した関西の大学

 1956年メルボルン大会代表には編入学した学生がいる。体操の小野喬は、秋田県立能代南高校を経て東京教育大(現・筑波大)を卒業する。その後、慶應大に編入学し、メルボルン大会で金メダルを獲得している。サッカーの八重樫茂生は岩手県立盛岡第一高校から中央大に進み、早稲田大に編入した。小野は4回、八重樫は3回、オリンピック代表に選ばれている。

 オリンピック代表を生んだ大学は東高西低である。1912年初参加のストックホルム大会から2016年のリオデジャネイロ大会まで、関東の大学の在学、出身者が圧倒的に多い。大学の数が多い、スポーツ強化に力を入れている、伝統や人気がある大学に有望な学生が集まるなどの理由が挙げられるだろう。こうしたなか関西の大学が健闘する競技がある。56年メルボルン大会においてサッカーで関西学院大からはOBも含め5人、水泳では天理大から2人が代表となった。

 1960年ローマ大会の一位、中央大24人の内訳はレスリング7、陸上6、フェンシング3、ボクシング3、水泳3、近代五種1、重量挙げ1。中央大は格闘技系で高校日本一の選手が多く入学したことが大きい。