あの人気プロレスラーたちも
1968年メキシコシティー大会には体操代表として日本体育大の学生、塚原光男、監物永三、小田千恵子が出場。塚原光男は国学院高校出身。探究心旺盛で新しい技に挑戦するのが好きだった。こうふり返る。
「先生の言うとおりなんか全然やらなかったから嫌がられていたとも思う。当時の指導法としては先生が指導し、作ったプログラムをやっていくのが主流だった。今のように技術が解明されてないから、どっちかっていうと『やれ』とか『こうせい』とか『頑張れ』なんていう世界なんですよね。そういうのあんまり好きじゃなかった」(『オリンピックスポーツ文化研究 №3』日本体育大学 2018年)
塚原はこの大会と72年ミュンヘン大会、76年モントリオール大会で団体総合優勝三連覇を果たす。その後、小田千恵子と結婚し、長男の塚原直也は明治大に進み、2004年アテネ大会体操団体総合で金メダルを獲得している。親子で金メダルを獲得した日本で唯一のケースだ。
72年ミュンヘン大会レスリング代表の学生2人が、のちに人気プロレスラーになった。
中央大の鶴田友美は山梨県立日川高校出身で、69年に大学に入学した当初はバスケットボール部に入ったが、レスリングに転向する。
「自分としては団体競技よりも個人競技で力を試してみたくて、途中自衛隊体育学校へ週3回通い、そこでアマレスを修業、大学4年のときレスリング部員になり、大学選手権で優勝しました」(『中央大学学員時報』1980年7月10日)。大学卒業後、ジャイアント馬場の誘いに応じて、全日本プロレスに入った。ジャンボ鶴田である。
専修大の吉田光雄は山口県の私立桜ケ丘高校出身。70年に入学し全日本学生選手権に優勝、オリンピック候補となった。だが、吉田は韓国籍だったため日本代表にはなれなかった。やがて、吉田の実力を惜しむ関係者の助けによって、在日大韓体育会を介して72年ミュンヘン大会の韓国レスリング代表に選ばれる。大学卒業後、新日本プロレスに入った。長州力である。
72年ミュンヘン大会出場について半世紀近く経ってから、長州は次のようにふり返っている。
「帰化申請も間に合わないし、かといって出場をあきらめたくない。出られるんだったら、たとえ日本代表じゃなくても、どの国でもいいと思った」(朝日新聞デジタル 2020年7月25日)
もう1人、レスリング代表の学生、国士舘大の伊達治一郎は、72年ミュンヘン大会では成績がふるわなかったが、76年モントリオール大会で金メダルを獲得している。その後、レスリングで後進の指導にあたっていたときに、とんでもない逸材を発見した。後の横綱武蔵丸(現・武蔵川親方)だ。さっそく元横綱三重ノ海(当時・武蔵川親方)に橋渡しして角界デビューとなった。伊達は2018年に亡くなるが、このときの武蔵川部屋のウェブサイトにはこう綴られていた。
「伊達先生はハワイでアメフトとレスリングをしていた親方をスカウトして日本に連れてきてくれ、来日後も色々なアドバイスをくれた恩師でした。(略)伊達先生が自分を見つけて声を掛けて下さらなかったら横綱武蔵丸は生まれていなかった、と親方は話します」