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“にほんたいいくだい”だった「日体大」は、なぜ“にっぽんたいいくだい”と読むようになったのか。

『大学とオリンピック1912-2020』#2

2020/10/08
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 レスリング代表7人中5人が北海道増毛高校(現在は閉校)レスリング部出身である。北海道の公立高校によほど優れた指導者がいて、素質がある生徒が集まったのだろう。このうちバンタム級の浅井正とフェザー級の佐藤多美治の絆は深かった。佐藤について中央大の学内報にこんな記載がある。「先輩である浅井選手に高校時代より指導を受け、選手層の厚い軽量級において強豪を退け堂々と代表に選出されたルーキーである。過日の対ソ連戦においては日本選手が苦戦した相手をストレートスルーで破るという実力を発揮」(『中央大学学報』1960年5月)。同大会では4位に入賞した。

 ボクシングの田辺清は青森県立青森工業高校出身。フライ級で高校、大学で日本一となった。同学報では「38連勝(TKO16)という躍進ぶりを発揮し、ストレート左右のフックは偉力あり、日本ボクシング界の金メダル候補である」とある(前掲)。田辺はローマ大会出場時19歳(大学2年生)で準決勝まで進んだが、ここで負けて銅メダルとなった。

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 この試合について、日本代表側は「田辺の判定勝ち」だと猛烈に抗議する。のちに日本アマチュアボクシング連盟がこう書き残している。

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「これには一同唖然として声も出ない。直ちに審判長の席に行き抗議するも規定によってなんとも致し方ない。後刻抗議文を提出することにして怒りをおさえて帰村する」(『第17回オリンピック大会報告書』日本体育協会 1962年)

人生を分けた意外な転身

 1964年東京大会では日本大、早稲田大が一位を分け合った。このなかでのちに大きな話題を提供してくれた学生がいる。早稲田大競走部の飯島秀雄だ。64年6月、20歳の飯島は100メートル走で10秒1の日本新記録、同年の世界最高記録を作った。しかし東京大会では決勝に進めなかった。飯島は陸上選手を24歳で引退し、69年、プロ野球のロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に入団する。世界初の代走専門選手という触れ込みだった。初出場で初盗塁を成功。そのときの捕手は野村克也だった。しかし、盗塁成功率はそれほど高くなく、71年に引退している。最近になって、当時をこうふり返っている。「最初はプロ野球の走塁コーチとして依頼があったんです。誰が言ったかわかりませんが、『走塁コーチはいつでもできる、だからピンチランナーでやらせたらどうだ』という話が出たんです。私の知らないところで」(「TBSテレビ『消えた天才~一流アスリートが勝てなかった人 大追跡~』取材班」東洋経済オンライン、2017年8月26日)

 同大会ではレスリングで明治大出身の杉山恒治が代表に選ばれた。愛知県の東海高校時代は柔道で日本一、相撲で全国大会ベスト16となり格闘技にめっぽう強かった。同志社大に入学し柔道を続けたが、杉山が強すぎて先輩が稽古をつけてくれず、ランニングばかりやらされた。それを見て怒った父親は同志社大を辞めさせ、明治大に編入学させる。ここで柔道部に入る予定だったが、明治大の柔道部監督が「最初に明治に来ると言いながら同志社に行き、また、明治に来るなんて信用できない」と入部を認めなかった。

 途方に暮れた杉山は縁あってレスリング部に入部するが、そのあとがおもしろい。杉山の回顧。「入部10日目にローマオリンピックの最終予選があったのですが、私はそれで優勝してしまったんですね。最終的に経験不足を理由にローマへの出場はならなかったのですが、当時の新聞に『新人杉山、10日で全日本優勝』と書かれ大変な騒ぎになった」(『明治大学レスリング部70年史』 2003年)。1964年東京大会後、杉山はプロレスの世界に転身した。リングネームはサンダー杉山である。