文春オンライン

連載文春図書館 今週の必読

シーラカンスにダイオウイカ、ガンに有効な成分を持つ生物も? “最後の秘境”「深海」のロマンとポテンシャル

平坂寛が『深海学』(ヘレン・スケールズ 著)を読む

2022/09/05
note
『深海学 深海底希少金属と死んだクジラの教え』(ヘレン・スケールズ 著/林裕美子 訳)築地書館

 現代において、もはや地上のどこにも人間が足を踏み入れていない土地は存在しない。「秘境」と呼べる場所は、ただのひとつだって残されていないのだ。……いや。地上から離れさえすれば、とっておきの秘境がひとつだけ残っている。水深200メートル以上、日光すらろくに届かない暗い暗い水の底――深海である。

 地上に恐竜の生き残りはいなかった。だが深海ではシーラカンスが生き延びている。ドラゴンやユニコーンは実在しない。けれど海の底には伝説上の怪物クラーケンさながらのダイオウイカがたしかに生息している。人目に触れたことのない未知の生物も千種といるはずだ。

 私自身もこの「最後の秘境」で新種の深海魚を探し出す興奮と喜びに取り憑かれている。これほどロマンに満ちた研究フィールドは他にありえない。

ADVERTISEMENT

 本書はそうした魅力的で果ての知れぬ深海を解説する。著者はイギリス生まれの海洋生物学者。研究者でありながら、ラジオパーソナリティや文筆家としても幅広く活躍している。専門的な内容を軽妙に読ませる文章はそのマルチな才能の結実といえるだろう。

 実は、英語には先述した「深海」の定義に該当する語句は存在しない。直訳した「deep sea」では数十メートル程度の水深にも適用されてしまう。なんせ人々の暮らしからはあまりに遠い世界である。そこで本書では深海を指す語として「底なしの穴」を意味するラテン語に由来する「abyss」を用いる。本書にちりばめられた驚異のエピソード群を読み進めるにつれ、これほどふさわしい言葉は無い。深海とは現代においてなお、果ての知れぬ深淵なのだ。

 地球上のあらゆる環境、あらゆる生命は繋がっている。本書では「簡単に言えば、深海があるから地球は生存可能な惑星なのだ」と言い切った上で、地球温暖化など我々が抱える環境問題と深海の関わりを説く。

 さらに資源調達先として深海底が秘めるポテンシャルを紹介し、その開拓がもたらす新たな環境破壊についても警鐘を鳴らしている。

 たとえば、深海性のカイメンやウミユリなどからは、マラリアや癌といった難病に有効な成分が発見されている。我々の未来を明るくするニュースである。

 一方、食用として無尽蔵と思えるほど捕獲できたある深海魚が、操業開始わずか数十年で消費し尽くされ、漁そのものが破綻したというエピソードは、深海開発に差す暗雲を示唆するものである。現状の確認が困難な深海では、浅海以上に慎重な資源採取が必要なのだ。

「深海」とは一言で表すにはあまりにも巨大な概念だ。それを生物学的、地理学的、さらには経済活動の面からも包括的に語る本書は、その入門書として最適である。深海を最後の博物学的冒険の舞台とするか、最新のビジネスの礎とするか。リアルな課題として深海に思いを巡らせる時が来ている。

Helen Scales/イギリス生まれ。海洋生物学者。魚を観察するために数百時間を水のなかで過ごしてきた。海の語り部として、ナショナルジオグラフィック誌やガーディアン紙への寄稿、BBCラジオへの出演、ポッドキャスト「CatchOurDrift」の提供などの活動をしている。他の邦訳書に『貝と文明』『魚の自然誌』。
 

ひらさかひろし/1985年生まれ。生物ハンター。黒潮生物研究所客員研究員。近著に『刺された! 噛まれた! 危険・有毒虫図鑑』。

深海学―深海底希少金属と死んだクジラの教え

ヘレン・スケールズ ,林 裕美子

築地書館

2022年6月10日 発売

シーラカンスにダイオウイカ、ガンに有効な成分を持つ生物も? “最後の秘境”「深海」のロマンとポテンシャル

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

週刊文春をフォロー