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終戦、78年目の夏

折り重なった死体を兵隊がトラックに…「地獄絵図でした」“100歳の元従軍看護婦”と「2週間以上続いた腐臭」

折り重なった死体を兵隊がトラックに…「地獄絵図でした」“100歳の元従軍看護婦”と「2週間以上続いた腐臭」

100歳の元「従軍看護婦」と“あの頃の日常”#2

2023/08/15

genre : ニュース, 社会

note

土屋 海軍ですから、陸にある海軍病院のような施設も軍艦と同じように軍艦旗を揚げていたんですが、終戦のときは本部前に集合がかかり、玉音放送を聞いたんです。その後、「軍艦旗降下」といって、ラッパ吹奏と同時に軍艦旗を降ろしたんです。玉音放送を聞いたことより、このほうが印象に残っていますね。

空襲に見舞われた東京。国会議事堂も見える

 降ろされていく軍艦旗を見ながら、みんな泣きましたよ、なぜってことじゃないんですね。泣いたのはね。なぜ泣いたかなんてわかんないですよ。そして、海軍で航空機に乗っている弟のことを考えていました。

〈海軍の水上機搭乗員として佐世保の航空隊に所属していた弟・土屋正男さんは、終戦までわずか一月半ほど前の7月2日に空戦で戦死していたことが後でわかる。〉

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「私たちは自決用の注射液を確保して持っていました」

――終戦を知らされた後は……?

土屋 患者を原隊や、原隊がない人は直接郷里に帰すなどの残務整理に追われていました。「(日本占領軍最高司令官)マッカーサーからの指令で、看護婦はみな防空壕に押し込められて殺される」などというデマが流れて、私たちは自決用にアヘンアルカロイドの静脈注射液を薬局で確保して持っていました。占領軍が来たらこれで死んでやろうと思っていたんです。

 でもある兵隊さんに、「土屋看護婦、死んではいけない。生きておばあさんになって、若いときの話を孫たちに聞かせるんだ。それまで死んではいけない」と諭されました。私はいままで独身を通していて孫はおりませんが、こうして皆さんが話を聞きに来てくれて幸せです。本当にありがとう。