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「野球をやっていていいのだろうか」能登を背負った球児「日本航空石川」が甲子園に立つまでの「葛藤」と親の「内心」

「野球をやっていていいのだろうか」能登を背負った球児「日本航空石川」が甲子園に立つまでの「葛藤」と親の「内心」

日本航空石川センバツ出場秘話#1

source : 週刊文春Webオリジナル

genre : ライフ, 社会, スポーツ, 教育

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 元日に能登半島を襲った最大震度7の巨大地震から間もなく3カ月。

 被害の甚大だった奥能登・輪島市にある日本航空高校石川(以下、航空石川)が3月25日、春の選抜高校野球大会に登場した。茨城の甲子園常連校・常総学院を相手に善戦したが、結果は0対1の惜敗に終わった。

 主役の球児たちを陰から支えてきたのが、彼らの家族だった。

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甲子園の舞台に立った日本航空石川野球部 Ⓒ時事通信

 

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選抜ベンチ入り唯一の石川県出身者・福森くん

 選抜出場が決定した時点から“被災地の出場校”という看板を背負って戦うことが宿命づけられていた航空石川ナイン。中でも、“被災球児”として、ことさらに注目を集めていたのが、背番号19をつけた新3年生の投手・福森誠也くんだ。

被災した福森誠也くん Ⓒ時事通信社

 選抜のベンチ入りメンバー20人のうち、唯一の石川県出身者。しかも、能登地区の七尾市に実家のある福森くんは、震災当日、輪島市の祖母宅で被災し、大津波警報が発令される中、腰の骨を折った祖母を負ぶって、無我夢中で高台に逃げたという。その後は七尾市の避難所で、ボランティア活動を手伝いながら、しばらく避難生活を続けた。

 父の愉一郎さんが振り返る。

「あの日は私も崩れた家屋の下敷きになって、揺れが収まらんうちは、死を覚悟したほどでした。その後は自分の家族を守るだけで精一杯で。避難所暮らしになり、誠也には『お前が今やりたいこと、せんならんことをして過ごすしかないぞ』と伝えていました。『がんばれ』とは、とてもじゃないが言えんかった。『野球』という言葉を出すのもためらわれて、口にしないようにしていました」

「それなら俺は全力でお前を応援する」

 航空石川は、のと里山空港の滑走路脇の校舎、全校生徒の9割以上が暮らす寮、運動部の施設などが地震によって大きな被害を受けた。年末年始の休みが明けても、能登キャンパスで新学期を始められる状況ではなかった。

 学校がオンライン授業に漕ぎつけた一方、昨年秋の北信越大会で4強入りを果たした同校野球部は、同大会で優勝した星稜高校が明治神宮大会高校の部を制し、選抜の北信越枠が2から3に増えたことから、出場校に選ばれる可能性を残していた。

 選抜出場を見据え、同校野球部は1月15日以降、兄弟校の日本航空高がある山梨キャンパスに集結。ただ、受け入れ人数に限りがあり、招集されたのは部員の約半数、32人の主力メンバーに絞られた。

 中村隆監督はそのメンバーに福森くんの名を連ねた。野球どころではない状況にあることに配慮し、参加するかどうかの最終的な判断を本人に委ねた。

 愉一郎さんが続ける。

「誠也には『お前が自分で決めればいい。もし迷いがあれば俺に言ってこいよ』と。本人が『俺、行くわ』と自分で決断したので、私も堂々と『それなら俺は全力でお前を応援する。死ぬ気でがんばってこい!』と言って送り出しました」