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2019/01/06

 それでも本田はいろんな財産を残してくれた。

 欧州挑戦はオランダの2部から始まり、ACミランの10番を背負ったことは、多くのサッカーファンや選手に夢と希望を与えてくれた。目標を口にして努力を目一杯続けていけば、いつかは叶うものだと。

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 また、プロとしての在り方も見せた。

 言動、ファッションなど、すべて計算し尽くされた中で生まれ、常にキャッチされる存在だった。多くのスポーツ選手がいる中、メディアにとりあげられるのはごく少数だが本田はメディア対策が徹底されており、しかも臨機応変に対処する柔軟性も見せてくれた。

 2013年、日本代表の欧州遠征前、雪が降る中、ロシアのCSKAモスクワの練習場に行き、直談判して取材をOKしてもらったことがある。翌日、立話ながら50分ほど取材をさせてもらった。熱意と取材の趣旨が伝わると断らない寛大さが本田にはあった。そういう姿勢が見えたからこそ、多くのメディアを惹きつけたのだと思う。

決定的チャンスもつくった本田 ©JMPA

 ブラジルW杯以降、本田はサッカーでは泥にまみれた4年を送った。

 ACミランでは怪我などで徐々にピッチから離れていった。日本代表でもカウンターを主体のチーム作りを進めるハリルホジッチ監督の構想から外れ、メンバーから漏れることが増えていった。それでも2017年7月にメキシコのパチューカに移籍するなど誰も考えないような本田らしい選択をして世間を驚かせ、自らも復活していった。

 思いがけずハリルホジッチ監督が解任され、西野朗監督になってからは1歩下がった状態でチームを俯瞰するポジションにいた。8年前のようなギラついた感はなくなり、自分が関わる最後のW杯と自覚していちおそらく西野監督からもそういう立場でのチームへのかかわりを求められたのだろう。本田は、選手をサポートする役割を積極的に果たすなど、大人の振る舞いを見せたのである。それはミックスでの本田の言葉からも感じられた。過激で煽るような言葉が消え、チームや選手を思いやる優しい言葉が増えていった。

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 だが、ロシアW杯は、“本田の大会”にはならなかった。

「究極、プロになるのもヨーロッパに移籍するのもW杯のためにやってきたから」

 その思いでW杯に臨み、チームは南アフリカW杯以来のベスト16に進出したもののベスト8を惜しくも逃した。個人の活躍もセネガル戦でW杯3大会連続となるゴールを決めたものの、その一発だけで終わった。

 これまで中田英寿―中村俊輔とは違う存在感で日本サッカーをリードしてきた。決して諦めないポジティブな生き方は歩みこそ違うが、カズに重ねることができる。だが、日本を本気で世界の強豪国に並び立たせようと考えていたのは、本田だけだ。

 本当にスケールの大きな愛すべき選手。

 本田の後にホンダはいない。

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