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料理本批評の本は、「食べたくなる本」であるが故に「考えたくなる本」だった

小松理虔が『食べたくなる本』(三浦哲哉 著)を読む

2019/04/28
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『食べたくなる本』(三浦哲哉 著)

「うまさを語ると野暮になる」と言いながら大物俳優が酒を飲むコマーシャルがあったのを覚えているだろうか。ああ、確かにそうだな、語ることは野暮だ。直感で飲み込めばいいのだ、などと得意げになっていたのは何を隠そうこの私だが、しかしそんな私も、震災と原発事故を福島県いわき市で経験し、野暮であるはずの「食をめぐる言葉」に翻弄された一人である。私たちは皆、食をめぐる言葉を通じて生活を取り戻そうとしたし、どの食を選び、どの食を選ばないのかを考えた。食を語ることは野暮なんかではなかった。

 本書は「料理本批評」の本である。これまでに数多出版されてきた「料理本」に書かれた言葉や、言葉を生み出すに至った料理家の思想や来歴を紹介する。批評のテキストだがとっつきにくさはない。イメージできるのだ。映画やサブカル、文芸ではなく「料理本」だからだろう。いつの間にか著者の批評の視座がインストールされ、食をめぐる言葉の豊かさや危うさ、いかがわしさをも感じながら読み進めることができる。言葉は私たちに風味を想起させ、それらに囲まれた暮らしを思い描かせる。なるほど「食べたくなる本」のタイトルに偽りはない。

 しかし、原発事故と食をめぐる二つの論考は「食べたい」という気持ちを押さえつけた。「食べたい」という思いのもっと手前にある根源的な領域、私たちはなぜそれを食べたくなってしまうのかという問題に、ほかのどの論考よりも強く光を当て、私たちに考えることを余儀なくさせるからだ。心の内を見透かされるような、原発事故後の「食をめぐる分断」の本質を言い当てられているような気がして、食欲を感じる余裕がなくなってしまう。スピリチュアルな言葉も紹介されている。それらは、原発事故後に「非科学的」と批判され、だれかを傷つけた言葉でもあるだろう。福島県郡山市出身である三浦もまた、「清らかなユートピアを求めてエコロジーを語る言説は野蛮であるように思われた」と述懐する。しかしながら、三浦はなお直感を否定せず、「自分と食べものをつなぐ想像力と、客観的に数値で検証しうること、その複雑なからまりあいを思考するためには、丹念な批評の作業が必要である」と言う。

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 誰もが食わねば生きていけないが、食は言葉に溢れてもいる。時に言葉は、食べる/食べない、安全/危険、科学/非科学と線を引く。私たちは食を通じて言葉に晒され続けるほかない。だから三浦は「食べたくなる」という根源的な欲求を燃料に、言葉の間を往還し思考する。そうなのだ。食べたくなってこそ、私たちは言葉に触れようとし、自分たちの暮らしを成り立たせているものに接続しようと試みることができる。本書は食べたくなる本であるが故に「考えたくなる本」であった。付き合いが長くなりそうな一冊である。

みうらてつや/1976年、福島県郡山市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程修了。専門は映画批評・研究。著書『サスペンス映画史』『映画とは何か』『『ハッピーアワー』論』、訳書『ジム・ジャームッシュ・インタビューズ』。

こまつりけん/1979年、福島県いわき市生まれ。ローカルアクティビスト。『新復興論』で昨年末、第18回大佛次郎論壇賞を受賞。

食べたくなる本

三浦 哲哉

みすず書房

2019年2月22日 発売

料理本批評の本は、「食べたくなる本」であるが故に「考えたくなる本」だった

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