「皇室は究極のイメージ産業」と表現したのは、朝日新聞記者として長く皇室報道に携わってきたジャーナリストの岩井克己さんだ。政治学者の御厨貴さんは、同趣旨をこう語っている。
〈象徴天皇制という制度は、国民の支持によって成り立っています。「開かれた皇室」をキャッチフレーズに、私的な部分、つまり理想の家族としてのプライバシーを国民に開放することで、人気と支持を勝ち得てきた。その切り札が、まさに美智子皇后だったのでしょう。〉(『皇太子と雅子妃の運命』)
皇室というイメージ産業の発展のため、開放すべきプライバシーとして「懐妊」はあるよね、というのが宮内庁サイドとメディアの認識だった。だから「マタニティ風スーツ」と書いてしまい、そこへの道として「生理」を説明する。
21歳の誕生日から「結婚」に関する質問をされた清子さま
同様に、若い皇族女性の「結婚」に至る「交際相手」については国民が知りたい。それもメディアの前提になっている。天皇家の長女・清子さま(現・黒田清子さん)に対し宮内記者会はそれを聞き続け、清子さまは根気強く付き合った。
初めての記者会見は90年、21歳の誕生日にあたってだった。結婚は「まだ実感から遠い感じです」とし、時期は「いついつまでにと申し上げてしまいますと、皇太子殿下のようなことになると思いますので」と「30歳までには結婚を」と言いながら果たせなかった兄を引き合いにして、ユーモラスに答えた。2年後、大学卒業時の記者会見では「結婚というものには実感が薄いようでございます」、男性との出会いは「あったかもしれないし、なかったかもしれない」。再び兄の台詞を使って、切り返した。
だがその後、清子さまのお相手をめぐり、報道が過熱する。25歳の誕生日には「マスコミによって騒がれた多くの人々の生活が乱され、傷つきました。とても心苦しく残念に思います」と文書で回答。だが26歳、27歳の誕生日にも「結婚」「お相手」を質問され、清子さまは「私なりの足並みで」「理想を描いて考えはしない」などと答え続けた。
31歳の誕生日会見で「結婚」の文字が消えた
27歳になって5カ月後、東欧訪問前の記者会見でも結婚について聞かれた。清子さまはとうとう「これからは答えを控えたい」と明言した。だが28歳の誕生日にもまた聞かれ、「事を急ぐだけでなく大切に考えたい」と答えている。
新聞記事を追いかけると、31歳の誕生日会見でやっと「結婚」という文字が消えている。清子さまは35歳で、都庁勤務の黒田さんと結婚された。
佳子さまは「先手を打った」
佳子さまは清子さまと違い、内親王ではあるが、「天皇の子ども」ではない。だが、令和になれば、「皇嗣の次女」となる。宮内記者会が会見を要請する場面が、平成より増えてもおかしくない。その「お相手」への関心は高く、報道されることからは逃れられないだろう。
だからこそ、「相手がいるかについてですが、このような事項に関する質問は、今後も含めお答えするつもりはございません」と先手を打ったのだ。
令和という時代を前に、佳子さまはこれまでの皇族女性とまるで違うメディア戦略を示した。新時代の新しい皇室像につながる、凛々しい第一歩だと思う。