ちょうど50年前の1967年2月5日、ザ・タイガースのデビューシングル「僕のマリー」(すぎやまこういち作曲、橋本淳作詞)がポリドールより発売された。そのジャケット写真でメンバーの瞳みのる(当時20歳)、森本太郎(同)、岸部修三(現・一徳。同)、加橋かつみ(当時19歳)、沢田研二(当時18歳)が着ているアイビールックの衣裳は、彼らがまだ「ファニーズ」と名乗っていた前年の5月、全関西エレキバンド・コンテストで獲得した優勝賞金5万円でつくったものだった(磯前順一『ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた』集英社新書)。
大阪のジャズ喫茶を拠点に活動していた5人は、ステージを観たミュージシャンの内田裕也の勧めから渡辺プロダクションと66年秋に契約、上京する。ザ・タイガースの名は、当時フジテレビの音楽番組『ザ・ヒットパレード』のプロデューサーだったすぎやまこういちにより、大阪から来た=阪神タイガースという連想からつけられた。「僕のマリー」もすぎやまの作曲だったが、それまでジャズ喫茶でビートルズやローリング・ストーンズを演奏していた彼らにしてみれば歌謡曲そのもので、レコーディングには戸惑いながらのぞんだという。
「僕のマリー」はさほどヒットしなかったものの、ジャズ喫茶や日本劇場でのウエスタン・カーニバルなどライブ出演とあわせ、テレビ番組にも登場して彼らの人気はしだいに高まり、5月5日発売の2枚目のシングル「シーサイド・バウンド」はヒットとなる。ちょうどGS(グループ・サウンズ)という言葉が一般に定着したころだった。やがて先行するザ・スパイダースやザ・ワイルドワンズ、67年10月にデビューしたザ・テンプターズなどといったバンドの活躍もあいまってGSブームが日本を席巻する。