文春オンライン

SNSの一部女性たちが「私はフェミじゃないけど」と前置きする問題について

2019/06/13
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「女性蔑視」を体現する元AV女優の肩書き

 どこかの女性の声が大きくなれば、そこに混ざれない女たちの記憶が、私には生々しくあった。誰かがすがるしかない幸福を剥ぎ取る可能性のある議論が、そのことに無頓着に進むのが怖かった。エロ雑誌が嫌われ、週刊誌が下世話な特集を縮小し、「女性差別的」で「時代錯誤な」店が規制されれば、明日の仕事や楽しみを失ったであろうかつての自分を投影していたと言えばそうだし、連帯しようとする女性たちにとっては、女の敵は女、の見本のような嫌な存在ではあったのだと思う。

 皮肉にもそういう時、「女性蔑視」を体現する元AV女優の肩書きはとても有利な飛び道具になっていた。露悪的に男と女の事情を話して、どこか女性を突き放してしまう癖がつき、気づけばSNSでミソジニストのように振る舞う「フェミ」嫌いの男性たちにまで味方の認定をされている。それも間違いなく私の持っているものではあるけれど、私は「フェミ」や「フェミじゃないけど」に対するのと同じくらいの違和感を、自分自身にも感じる時がある。

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私が骨太のフェミニズムの論理に少し心躍った頃のこと

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 少しだけ立ち返った話をすると、15年近く前、私はフェミニズムを含む多くの概念を詰め込まれる立場の学生だった。私のように社会学をかじった学生が、初期に読まされる、というか小難しくてなかなか読めないけれども買わされる本の中に、スペクターとキツセの『社会問題の構築』という構築主義の基礎文献があり、難解なそれを理解するために、こちらも多くの学生が同時購入する上野千鶴子編の『構築主義とは何か』がある。おそらく、若く傍若無人だった私が骨太のフェミニズムの論理に少し心躍ったのは、そのあたりにいた頃だ。

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