フェミニズムに気を使わずに社会学として評価される論文を
ポルノ批判をするかの集団と何か感覚を共有することはできないと思っていたが、そういった、簡単にいってしまえば一枚岩ではない女の多様性が、すでにフェミニズム内部で想定されていることは、私にとって心強いことだった。そこから私はフェミニズムやフェミニズム批判を読むようになり、性の商品化や性の自己決定の是非に触れ、しかし修士論文を書く際に初めに担当教授に相談したのは、性の商品化の現場を扱いながら、フェミニズムに気を使わずに社会学として評価される論文を書くことは可能か、ということだった。
私はフェミニズムのアイデアが自分にとって重要となることをすでに信用しながら、それでも自分の肌が通ってきた現場をその文脈のみに集約する自信はなかったし、やはり忙しなくも悲壮感はなく、もっと別のことに夢中になっている友人たちの空気感は、社会的に強制されたもののようにも、懐疑的に脱構築すべきものにも思えなかったからだ。その感覚を頼りに、私は文筆業としても最初に世に出すことになるAV女優に関する論考(のちに『「AV女優」の社会学』として出版)を、ある程度ジェンダー論から自由な立場で執筆することにした。
思うように生きるためにフェミニズムの議論を希求する私と、たとえ差別に繋がるであろう差異をも温存して現状の「女」を慈しみたい私と、その両方が今も私の中にはある。それでも短文の極端な発信が飛び交い出した社会で、細かいクレームの申し立てこそが正義とされ出した社会で、次第に原始的な声を上げ出す「フェミ」に対峙して、可能な限り前者の私を放棄することを選んだ。それが正しいことであるという確信があったわけではないが、大まかな同意をして小さな違和感を隠しているよりは、違和感の方を叫んでいる方が幾分楽ではあった。
当然、正直な自分というものはほとんど失いつつある。「フェミじゃないけど」と前置きをする女性たちにも、自己犠牲的に「フェミ」を標榜せざるを得ない女性たちにも、正直さは感じないが、それは私が正直さを失った自分に対して持つ懐疑的な気持ちや窮屈さに似ているので、ギリギリのところで共有できる痛みは何かしらあるとも思う。
「古風な女は私の中にも眠っていて、時々ふっと顔を出すことがある」
冒頭に引用した三浦瑠麗の本は、これまでの硬派な著書や討論番組で扱う外交問題などのテーマを離れて、学者であり女性であり働くエリートであり母である女性の、傷や孤独、そして生きることの温かみについてとても自然な言葉で書き綴られた本だ。同年代をリードする立場の女性によって語られるいくつかの転機や半生の切り口は無数にあるのだけど、私は、女性と知性を同時に持ち得た彼女の「古風な女は私の中にも眠っていて、時々ふっと顔を出すことがある」という何気ない吐露に、「私の心は母性を得て広くなったようでいて、実はわが子のことだけを考えることできわめて狭くなっていた」という告白に、先を急ぐ視線を一度止めて、思いを巡らさざるを得なかった。
同書が捉えた息苦しさや、行間に押し込まれた生々しい傷は、頑なになりがちな、いくつもの立場の女性たちの腰をさするような安心感がある。あえて「私には二面性があって」と改めて書かれた箇所に救われる気分になった。