少し前に、初めて連絡をとる編集者が、読んでみてくださいと送ってくれた最終稿のゲラを一気に終章まで読み進めると、末尾にこんな言葉があった。「あなた自身を、出来事や外部に定義させてはいけない」(三浦瑠麗『孤独の意味も、女であることの味わいも』)。
著者の強く綺麗な顔を思い浮かべ、また、小さな蔑視と日々愚直に戦いながらもフェミニズムという言葉には居心地の悪さを示す女の子たちを思い出して、こうでありたいと思っても、こうなんでしょ? と外からなぞられることを酷く恐れている自分たちのことも思った。正直に生きることは摩擦を生むけれども、正直ではない姿でラベリングされてしまうのもまた、とても窮屈なことだ。
「女性差別は憎い。でも私はフェミじゃない」
ちょうどSNS上で「女性差別は憎い。でも私はフェミじゃない」なんていうフレーズが散見されることに、少し注目が集まっている。思い起こせばここ1年、女友達との日常的な会話で「フェミみたいに煩くて」「フェミが怒るよ」なんていう言葉をよく耳にしたし、自分も発してきた気がする。私が学生だった頃よりさらに極端なステレオタイプのイメージを伴って、言葉が乱用されだしたのはきっとインターネットでの発信が年々気軽なものになったことと大きく関係しているし、逆説的だが真っ当な女性の訴えが本気で社会に受け入れられるようになったこととも無関係ではないだろう。
「私はフェミじゃないけど」に続けて差別の現状や受けた扱いへの不服を申し立てることは、ある意味ではとても小賢しい逃げ口だ。言いたいことを言って自己主張はしたい、でもそれによるラベリングは拒否する。何かを訴えることは、それを訴えた人、として在ることを引き受けることでもある。それを引き受けないと宣言するのであれば、その後に続く発言には極めて慎重になる必要がある。自分が痛み分けをしない発言は攻撃的になりやすく、不用意に他者にだけラベリングを施すことになりかねないからだ。
発言の重みを理解することは黙ることでは決してないのだけど、私は最近随分「フェミ」にも「フェミじゃないけど」の主張者にも嫌われてしまった。不思議だとは思わない。私は自分が学問の世界の末席にいた頃、当然SNSや「フェミじゃないけど」が登場する随分前から、そういう小賢しい逃げ方をしてきたし、一度学問から全く離れてからは、歪に強まっていく女性側の主張に、外にいるふりをして疑問を投げかけ続ける、ということをしてきた。