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自分の人生に納得しながらクレームを言うこと

 自分の人生に納得しながらクレームを言うことは多くの矛盾を伴う。それは多くの、幸福でありたいし自分の幸福を認めたい女性たちが孕んでいる矛盾である。個人的な経験を言えば、私は今のような仕事をするようになってから、過去のご職業が番組の責任者の間で問題になってお仕事がなくなりました、と何度となく言われてきた。随分歳をとったし、そんなことは友人に笑い話として話すことはいくらでもできる。もし傷つけば、納得したはずの自分の人生をまたひっくり返さなくてはいけない気がして、全く傷つかなくなった。新調した衣装が、脚と胸の谷間が見えない、という理由でボツになっても、友人に報告して爆笑した。正直さなんてもうどこにあるかわからないし、別に本当に心から笑っているのだけど、自分が無視した傷も、私の中にはある。

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快楽にも傷にも敏感になっておいた方がいいような気はする

「フェミ」という言葉が窮屈なのであればもうそれはそれでいいように思う。ギャルとして生きたあの時代の渋谷で必要だったのは、少なくともそんな言葉ではなかったのだし、その不必要の上に私たちの正直な感覚がある。しかしギャル時代よりはもう少し傷の増えた身体で、私たちがこの新時代を生きるのであれば、どこか両面的な正直さの矛盾を認めて、快楽にも傷にも敏感になっておいた方がいいような気はする。

 荒げている声や定型文のような前置きに縛られずに、時代に合わせて高度に教育された自分らの正しい部分と、正しさを超えて女体をしっかり感じる部分に同時に向き合えば、おそらく時代は先に進むだろう。自らの傷口を開いて、そこに手を入れ、一番奥の方にある構造に気づく、そんなフェミニズムの本来の形を、私たちは「フェミ」という言葉ではなく、肌で感じて学び、肌の中にしっかり蓄積している。

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 私は幸福感のある生活を送っているけれど、続く若い後輩たちに、私より少し傷の少ない生活を送ってほしいと思う。自分の幸福を否定しないで傷を主張できる強さこそが社会変革の鍵であるなら、「フェミじゃないけど」と矛盾する女性たちの心の有り様は、窮屈そうではあっても絶望的ではない。