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ニコはボールを選んでいるか――ベイスターズ・乙坂智と「選球眼」の物語

文春野球コラム ペナントレース2019

2019/08/30
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 大事な場面とともに、必ずそれはある。ユニフォームのポケットから慣れた手つきで取り出す。世界は一瞬滲んで、でもすぐに、人とボールと風がくっきりとした輪郭をもって広がるのだろう。そして乙坂はまたポケットにしまう、目薬を。勝負の時がやってくるから。

ニコのプロ初打席はホームランだった

 ニコはボールを選んでいるか。

 乙坂智。2011年ドラフト5位入団。この年はTBS政権最後の、いわゆる「嫌がらせ」ドラフト組などと呼ばれてきた。横浜高校では筒香の2個下。アイスホッケー選手だったアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、愛称のニコは本名の「乙坂・ルーセロ・智・ニコラス」からきている。「オト」と呼ぶか「ニコ」と呼ぶかはあなた次第。

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2011年にドラフト5位で入団した乙坂智

 ニコはボールを選んでいるか。

 2014年5月31日、QVCマリンフィールド(現ZOZOマリンスタジアム)。9回表、ニコは初めて一軍の打席に立った。1球目、渾身の空振り。2球目落ちるボールを渾身の空振り。しかし3球目、同じような落ちるボールは見切る。えらい。ニコえらい。そして運命の4球目。ピッチャー益田の高めストレートを振り抜く。ボールは静まるライトスタンドへと消えた。

 プロ初打席はホームランだった。

 小池コーチが天高く拳を挙げた。はしゃぐキヨシ、驚く新沼コーチ、山崎憲晴が笑い、下園が讃える。背中で語るソーサ。

 ニコはボールを選んだ。プロ初打席からちゃんと、打つべきボールを見極めていた。

「ジーターになりきって絶対に打ちます!」と宣言した日

 ニコはボールを選んでいるか。

 2015年8月7日横浜スタジアム。マウンドにはその名を聞けば全ベイスターズファンが震え上がる阪神メッセンジャーが仁王立ちしていた。不遜な笑みをたたえている(ように見える)。ワルが集まるダイナー(ラーメン屋)で「ヘイニコ、良い子はお家でママの子守唄でも聞いてな」と言っている(ように見える)。2アウト1 、2塁、1点差という緊迫の場面とは思えない、余裕。全ベイスターズファンが何かを悟り、そっとテレビの音を消す瞬間にそれは起こった。打てるもんなら打ってみろと言わんばかりに投げ下ろされた速球を、それよりもっと素早いスイングで打ち返したニコ。全ベイスターズファンの予想を裏切りながら、ボールはバックスクリーンに沈んだ。

 逆転3ランだった。

「アンビリーバブルだな」ガムを噛むバルディリス。我が事のように喜ぶ同期の高城。松本啓二朗が頭をポンポン叩く。

 ニコはボールを選んだ。難攻不落のメッセ城を、その手で、その眼で撃ち落とした。

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