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 1944年、内田は海軍からニューギニア(現パプア・ニューギニア)の司政官に任ぜられる。しかし日本軍は首都ポートモレスビーから敗走し、兵士たちは栄養失調でばたばたと倒れていった。そのなかで内田は、食糧を勧められても、将来ある若い人にあげてくれとけっして口にせず、1945年2月、ニューギニア島サルミの山中にて47歳で死亡する(※2)。

「幻の1940年東京五輪を夢見た」大江季雄

 1936年のベルリン大会で棒高跳びに出場した大江季雄は、アメリカ勢を相手に一緒に闘った西田修平と、銀と銅のメダルを2つに割って半分ずつつなぎ合わせた「友情のメダル」のエピソードで知られる。このとき、5時間あまりにおよんだ競技では、アメリカのメドウスが1位、セフトンが4位になり、最後に残った西田と大江で2位と3位を決めることになった。だが、両者ともすでに疲労が限界に達していた。そこで西田が順位決定戦の辞退を申し入れ、審判員も了解する。当時のルールでは、同じ高さを跳んだ複数の選手は、試技数に関係なくすべて同順位とすることになっており(※4)、西田も、決定戦を辞退した以上、自分も大江も2位になると思っていた。しかし、公式結果では、試技数の少ない西田が2位、大江が3位とされた。

1936年ベルリン五輪、棒高跳びの表彰式。左が銀メダルを獲得した西田修平。右奥が銅メダルの大江季雄 ©getty

「友情のメダル」は、結果に釈然としない西田が帰国後、大江に持ちかけて生まれた。この話は、戦前は修身の教科書にも掲載されたが、少なくとも当事者の一人である西田は、美談として伝えられるのは心外であったという(※5)。

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 ただし、競技の翌日に行なわれた表彰式では、西田は大江に2位の台に上がるよう促している。これは、当時の日本の陸上・跳躍陣のあいだに、オリンピックで一度好成績を上げた選手は、次の大会ではさらに成績がよくなるというジンクスがあったのを踏まえてのことだ。西田は前回、1932年のロサンゼルス大会では2位だったが、ベルリンでも同じ順位に終わった。しかしまだジンクスが生きているとするなら、大江こそ2位にしておくべきだろう。そうすれば、すでに開催が決まっていた次回、1940年の東京大会では、年齢的にも最高の時期にぶつかる大江が優勝できるはずである……。西田はそんな願いを込めて、大江に表彰台の位を譲ったのだった(※5)。