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 スウェーデン戦で同点ゴールを決めた右近徳太郎と、逆転ゴールを決めた松永行(あきら)も、それぞれ太平洋戦争で激戦地となったブーゲンビル島とガダルカナル島に送られる。松永は1943年1月、29歳(推定)で、右近は1944年3月、31歳で戦死した。

1936年ベルリン五輪サッカー。スウェーデン戦前に整列する日本チーム。優勝候補スウェーデンに3-2で逆転勝ち。「ベルリンの奇跡」と呼ばれる ©共同通信社

 さらに日本チームの主将を務めた竹内悌三は、召集後に配属された満州(現在の中国東北部)で甲種幹部候補生の選抜試験を受けて合格、訓練を経て陸軍主計少尉となる。しかし終戦直前の1945年8月9日、ソ連軍が満州へ侵攻、当地にいた60万人もの日本人が捕虜としてシベリアへ抑留された。竹内もその一人だった。極寒の地で、満足に食事も与えられないまま重労働を強いられるうち、日本人捕虜からは多くの死者が出たが、残念ながら竹内も1946年4月、37歳で病死する。

戦没オリンピアンと2020年東京五輪のめぐりあわせ

 竹内の死は、2年後にようやく家族に伝えられた。それでも当時小学4年生だった娘の幹子(もとこ)はどうしても信じられず、もしかしたらどこかで生きていて、いつかきっと帰ってくるはずと思っていたという(※7)。ベルリンオリンピックの2年後に生まれた幹子は、母から父の思い出を聞かされるうち、スウェーデンという国の名に特別な響きを覚えるようになる。東京藝術大学卒業後には、東京のデザイン事務所を経て、北欧で照明器具のデザインを学ぶためフィンランドの照明設計事務所に入った。大学卒業後にスウェーデン語を独習した彼女は、その事務所に雇ってほしいと手紙を書き送っていた。やがて照明デザインに関心を抱くようになり、今度はドイツの照明デザイン会社に勤務する。

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 なお、幹子は結婚して石井姓となった。石井幹子といえば、日本における照明デザインの先駆者として、ご存知の方も多いだろう。1989年より始まった東京タワーのライトアップも彼女の手になるものである。2002年の日韓共催のサッカーワールドカップ開催に際しては、東京タワーを日本代表のチームカラーのブルーで染め上げた。昨年12月には、皇居外苑のライトアップが始まったが、これも幹子が環境省より全体像づくりを委託されて手がけたものである。このプロジェクトは、来年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、皇居周辺の観光への活用のため進められた。亡き父とゆかりの深い北欧とドイツでデザインを学んだ彼女が、父とは違った形ながら、サッカーやオリンピックとかかわりを持つようになったことに、運命のめぐりあわせを感じてしまう。

※1 「『戦没オリンピアン』の人生をたどる」(「NHKニュース おはよう日本」ホームページ、2018年5月18日)
※2 曾根幹子・卜部匡司「日本人戦没オリンピアン名をめぐる混乱とその真相――ベルリンに届けられた大島鎌吉の作成名簿更新の試み」(広島市立大学国際学部『広島国際研究』Vol.22)
※3 三浦裕行『内田正練とその時代――日本にクロールがもたらされた頃』(北海道大学総合博物館)
※4 結踏一朗『リンデンの梢ゆれて――大江季雄の青春』(出版芸術社
※5 沢木耕太郎『オリンピア――ナチスの森で』(集英社e文庫)
※6 大野芳『オリンポスの使徒――「バロン西」神話はなぜ生れたか』(文藝春秋)
※7 竹之内響介『ベルリンの奇跡――日本サッカー煌きの一瞬』(賀川浩監修、東京新聞)