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 だが、東京オリンピックは1938年、日中戦争の悪化にともない返上される。1941年11月、27歳になっていた大江の所属する京都・福知山の歩兵第20連隊は、南方に向けて出発。その途中、12月8日に太平洋戦争が開戦する。それからわずか16日後の12月24日、フィリピン上陸作戦において大江は戦死した。

馬術の金メダリスト「バロン西」

 西竹一は、1932年のロサンゼルス大会の馬術・大賞典障害飛越で金メダルを獲得、続くベルリン大会にも出場し、同競技では20位と惨敗、総合馬術個人でも12位にとどまったものの、大障害団体での日本の6位入賞に貢献した。

1932年のロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した西竹一 ©AFLO

 男爵の家柄で、陸軍士官学校出身の職業軍人だった西は、オリンピックでの活躍により英雄にまつりあげられ、欧米でも「バロン西」の通称で知られた。だが、太平洋戦争中の1944年、陸軍中佐だった彼が戦車第26連隊長として送られたのは、猛暑と水不足の地獄の島と言われていた硫黄島であった。翌1945年2月に米軍の上陸作戦が始まると、日本軍はほぼなすすべもなく、将兵の自決があいつぐ。西は部下たちに「死に急ぎするな」と常に言い続けてきたが、その言葉はもはやほとんど意味をなさなかった。西もまた、1945年3月、激戦のなか42歳で戦死する。

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 この硫黄島での戦闘中、西は包囲している米兵からその命を惜しまれ、「オリンピックの英雄、バロン西、出てきなさい」と投降を呼びかけられたという伝説がある。だが、この話については、ノンフィクション作家の大野芳(かおる)が、生還した彼の部下などに取材した結果、西の遺族への配慮から誰かによって創作されたものであると、ほぼあきらかにしている(※6)。部下の一人は、西が海岸で胸を撃たれて死んでいるのを発見し、敵に見つかるとまずいと思い、岩陰に隠したと証言した。そのとき部下は、生前の西が命の次に大事だと言っていた、ロサンゼルスオリンピックで使った籐の鞭を探したが、ついに見つからなかったという(※6)。

「ベルリンの奇跡」1936年サッカー日本代表

 1936年のベルリン大会では、サッカー日本代表が当時の強豪スウェーデンに歴史的勝利を収め、「ベルリンの奇跡」としていまなお語り継がれている。このときの選手たちも、戦争が始まるとあいついで出征していった。最初に犠牲となったのは、ベルリン大会に参加するも試合への出場機会はなかった高橋豊二である。元首相・高橋是清の孫である高橋は、海軍に入隊して航空予備学生となったが、太平洋戦争開戦の前年の1940年、訓練中の事故で死亡した(享年26)。