2019年9月23日の北海道日本ハム戦。本拠地ZOZOマリンスタジアムで行われるこの試合をもって千葉ロッテマリーンズのレジェンド・福浦和也内野手は惜しまれながらもバットを置く。
福浦には原点とも言える忘れられない光景がある。デビューは1997年7月5日のオリックス戦。デビューもまた本拠地での試合だった。初めての一軍昇格が決まったのは前夜7月4日。二軍の遠征先の秋田から朝一番の飛行機で羽田空港に移動する事になった。ホテルのチェックアウトを済ませ荷物を抱え、出発をしようとすると、ロビーに二軍監督の姿があった。「頑張ってこいよ」。力強く肩を叩かれ、若者はタクシーに乗った。車中から振り返ると二軍監督は手を振り、姿が見えなくなるまで見送ってくれた。当時、二軍監督を務めていたのは山本功児氏。初の一軍に、ほとんど寝る事も出来ずに出発した福浦和也内野手は、あの日から2000本のヒットを放った。プロ生活は26年に及んだ。
「打撃の才能がある。野手をしないか」
「初めて一軍に行く時にわざわざ朝早くからロビーで待って、見送ってくれた。よく怒られたし、打撃でも守備でもいろいろと指導をしてもらった。なによりも投手から野手への転向を勧めてくれたのが山本さん。今の自分があるのはあの人のおかげ。恩人だよね。思い出はありすぎるなあ」
引退試合まで1週間を切った福浦はそう言って遠い昔を振り返った。1年目の事。二軍キャンプが終わり、浦和球場に戻った時、当時は二軍打撃コーチをしていた山本氏に声をかけられた。「打撃の才能がある。野手をしないか」。最初は冗談だと想い、愛想笑いでごまかした。だが、その後も目が合うたびに声を掛けられ、本気だと知った。「オレはピッチャーをやりたかったから、断り続けていたよ」。しかし、最後は熱意に押された。練習の合間の休憩時間に声を掛けられ、試しにと打撃ケージ内で打った。さく越えの一撃を放った。それをじっと観察をしていた二軍首脳陣は決断を下した。福浦和也は投手から内野手となった。プロ1年目のオールスター休み明けから野手としての日々が始まった。
「とにかく練習をした。山本さんに、させられたというのが正しいけどね。あの時は本当にバットを振った」
プロ野球は二軍とはいえ、投手から転向した打者がすぐに通用するほど甘くはない。本人が振り返るように練習の日々が始まった。チーム全体練習前に朝練の特打。試合後も特打。寮に戻ってもバットを振った。遠征先での試合を終えヘトヘトに疲れて寮に戻ってきた際も室内で特打を命じられた。野手としての遅れは歴然。少しでも一人前になるべく、とにかくバットを振った。側にはいつも山本氏の姿があった。
迎えた4年目の97年7月4日の夜。秋田遠征中の宿舎で二軍監督になっていた山本氏から「明日から一軍だ」と言われた。急な招集に驚いた。寝ることができないほど緊張した。いったんは布団に入ったが、ダメだった。だから起きてバットを握った。二人部屋だったため、部屋の明かりはつけずに真っ暗の中、バットを振り続けた。山本氏の教えを思い出すように打撃のポイントを確認し、深夜にようやく眠りについた。
「同部屋の選手はたぶん目を覚ましていたと思う。でも緊張している自分のためになにも言わず、そっとしてくれた」と福浦は苦笑いを浮かべながら当時を振り返る。
翌7月5日、マリンのデーゲームに間に合わせるため、早朝に身支度をし、ロビーに向うと、山本氏がいた。野手への道を作り、毎日、指導をしてくれた人がこんなに早い時間にわざわざ見送りに来てくれたことが身に染みた。活躍を誓い空港へ向かった。羽田からタクシーに飛び乗り、マリンに到着したのはチームの全体練習が終わる寸前だった。バタバタと練習を済ませると、この日のオリックス戦、7番一塁でスタメン出場を言い渡された。4回にフレイザーから初ヒット。インコースのスライダーに詰まった当たりはポトリとセンター前に落ちた。記念すべき一軍でのプロ初ヒットだった。2000本安打を放つ男の伝説はここから始まった。