中途半端こそが「意識高い系」である
かくいう私も、本書で縷々述べる通り暗い青春時代を送った。いやしかし一方で、【エリートにもなれず、かといって不良にもなり切れない中途半端な存在】であった。この中途半端の存在こそ”意識高い系”であり、であるがゆえに強烈なコンプレックスの炎は、出身地のスクールカースト上位者=「リア充」から離れることに成功した大学生や社会人になって以降、さらに益々燃え上がるのである。その心のメカニズムを分析することは、まさに私自身を内省する心の旅と同期するもので、書いていて筆が折れそうになるほどつらい部分もあった。
しかし、自己と対面することなく、ひたすら自己の虚飾をひけらかすことで生まれたのが「意識高い系」とするならば、私は私自身の同族の問題として彼らの心の闇を描かなければならないと思ったのである。「意識高い系」とは私にとって他者の問題ではなく、同族の問題でもある。だから彼らの薄暗い陰惨な心の歪みがよくわかるし、と同時に適切な是正も必要であろうと思う。
黙殺せず、理解すること
これまで「意識高い系」を批判・揶揄する論考はあったが、その成立を分析するものは少なかった。「意識高い系」を類別しても、そもそもなぜ「意識高い系」が発生するのかの分析はあまりなされてこなかった。本書は彼らの異常ともいえる承認欲求がどこから発生するのか、どのように肥大していくのかを、若者の政治参加、ノマド、愛国女子、キラキラ女子など、世間を騒がせた「事件」とその主役たちの例も出して徹底的に分析を試みている。
あなたの身の回りにいる「意識高い系」を、「面倒くさい人」と唾棄し、黙殺するのは得策ではない。「意識高い系」が生み出される背景には、戦後日本社会の根本によこたわる「土地」と「スクールカースト」という二つの「拭い難い」構造的格差が存在するからだ。本書が「意識高い系」への理解と共生の一助になれば幸いである。