朝日新聞にこの小説を連載したときの反響は大きかった。
「読者からたくさん手紙をもらいましたがなぜか達筆の方が多くて。連載小説を読み通したのは『氷点』以来です、なんて人もいましたね」
主人公は元ボクサーの広岡。アメリカに渡って世界の頂点をめざすが果たせず、四十年ぶりに帰国する。かつて「四天王」と呼ばれた仲間との共同生活を始め、前途を有望視されながらボクシングをやめた翔吾という青年と知り合う。
小説を読みながら頭に浮かぶのは、故高倉健さんの声と姿だ。
「そう。小説の骨格は、高倉さんをイメージして書いた映画のシノプシスがもとになっています。当時は、いまさらボクシング映画はできない、ということで映画化はされなかったんですが、それならば、と今回、主人公の年齢を自分と近い設定に下げたら、いろいろなことがつかみやすくなりました」
沢木さんには、元東洋チャンピオン、カシアス内藤の再起をかけた挑戦を描く『一瞬の夏』というすぐれたノンフィクションがある。呼応する『春に散る』のタイトルを選んだことで、小説の結末はあらかじめ予告されていると言える。
「多摩川の近くにすごく綺麗な桜並木があるのを教えてもらって、ここを歩くシーンで高倉さんを死なせたいと思ったんです。発端と結末はシノプシスで決めた通りですが、その間のストーリーは随分違っています。桜並木を歩くときの広岡の内面は小説で初めて書いたものだし、実は新聞連載と本でも思いが異なっているんですよ」
その変更は、書き終わって初めてわかったことがあるからだと言う。
「広岡たち四人は翔吾にいろんなことを教えるけど、たぶん翔吾も広岡に大きなものを与えていたんですね。それは何かという質問には、小説を読んでほしいと答えますが、彼らは決して一方的な関係ではなかった」
一軒家を借りての彼らの共同生活は、老後の暮らしの一つの理想に思える。
「僕の同世代は、否定的だったり戯画的だったりに書かれることが多いんですが、できるだけそうせず描こうと思いました。『一瞬の夏』の時も一緒だったカメラマンの内藤利朗くんが肺がんで亡くなったのですが、幼友達で長い時間をともに過ごした彼の不在が、広岡たちの友愛に満ちた空間をぼくに作らせたんじゃないかという気がします」
【文藝春秋 目次】<第156回芥川賞発表 受賞作全文掲載>山下澄人「しんせかい」/<著名人60名アンケート>安楽死は是か非か/<特別対談>橋田壽賀子×鎌田實
2017年3月号
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