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47年前に最後の村人が下山……東京奥多摩の廃村「峰」で27歳まで暮らした旧住人が語る“あの頃の生活”

都心から日帰りで行ける廃村巡り #2

2019/10/26

genre : ライフ, 歴史,

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かつては集落から東京湾が見えた!

 柳田はその時のことを、9年後に自家出版した処女作『後狩詞記(のちのかりことばのき)』の序においてこう振り返っている。

〈東京から十六里の山奥でありながら、羽田の沖の帆が見える。朝日は下から差して早朝はまず神棚の天井を照らす家であった。この家の縁(えん)に腰をかけて狩りの話を聞いた。

 小丹波川の源頭の二丈ばかりの滝が家の左に見えた。あの滝の上の巌(いわお)には大きな穴がある。その穴の口でこの熊(今は敷皮となっている)を撃ったときに、手袋の上から二か所、爪を立てられてこの傷を受けた〉(句読点や漢字、仮名遣いを読みやすさを考慮して改変)

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かつてはここに柳田國男も泊まったという

 その狩りの話をしてくれた主人、福島は奇しくも柳田と同じ25歳。福島は「峰の大尽」と呼ばれ、相当裕福だったらしい。その他、当時の峰には福島姓が六軒、加藤姓が一軒あり、総称して「峰七軒」と呼ばれていたという。

ご馳走は鹿肉で、街燈も電話もあった

 さて、釜飯のお店で遭遇した老人は現在80歳で、このあたりでプロパンガス屋を営んでいるという。そういえば、峰にもプロパンガスのボンベがあった。

「俺が最初に峰を訪れたのは小学校4年の時だよ。もう70年も前だ。夏休みにアルバイトに行ったんだ。峰の生業は林業だった。杉を切り倒し、皮をはいで木材にする。その皮も捨てるもんじゃなく、屋根を葺く材料になるから、ちゃんとした売り物だ。その皮剥ぎを任されたんだよ。余分な人手がなかったから、俺みたいな小学生でも大歓迎さ」

プロパンガスのボンベも残っていた

 泊まったのは、柳田國男と同じ、峰の大尽と呼ばれた福島家だった。「家からは東京湾が見えたよ。水面がきらきらと光っていた。夜になると今度は東京の夜景さ。あそこは田んぼがないから、米はない。その代わりに麦を作っていた。ご飯時にはその麦飯(ばくめし)が出た。おかずは魚の干物か、味噌漬けにした鹿や猪の生肉だ。肉はうまかったよ。下ではなかなか味わえないものだったからなあ」

集落の端は崖になっている。今は木々に遮られているが、かつてはここから東京湾が見えたという
電化製品もいくつか残されていた。電気が引かれていた証拠だ

 後に何度か通ううち、電気も引かれた。集落の中には街燈もあり、電話も通じていた。「里からそんなにも離れていない。土地は平らで太陽がたっぷり降り注ぐ。暮らし慣れればいい場所だったと思うが、水の確保は大変だった。夏は沢から引いた共同井戸から水を汲んでいたけれど、冬になるとその水が涸れるんだ。それを見越して、つるべ井戸を掘った家もあった」