「死ぬなら家で死にます」と言って外泊
「病室って、自分のアイデンティティに関わるものが一切ないんですよね。それが耐えられなくて、奥さんにお気に入りの革ジャンやブーツを持ってきてもらって、わざわざ病院のパジャマから私服に着替えてました」
矢野さんが作った前述のブレスレットの留め具に「quality craftsmanship」という刻印があるように、アーティストとしての審美眼を持つ矢野さんゆえ、殺風景な空間はより耐え難いものだったのかもしれない。抗がん剤治療をはじめて2カ月近く経った頃、遂に限界が訪れる。
「抗がん剤が、というより自分の好きなものがなにもない環境がとにかく辛くて、家に帰りたかったんです。ただ薬の影響で免疫力が下がっているので、『外に出たら死ぬかもしれない』と医者には言われました。でも本当に追い込まれていたので、『死ぬなら家で死にます』と言って外泊しました」
悪性リンパ腫治療の最終手段
精神的な苦痛を味わう一方、当時認可されたばかりの抗がん剤はがん細胞をほぼ駆逐するほどの絶大な効果を発揮した。そして矢野さんは再発リスクを抑えるため、自家造血幹細胞移植という治療に入る。
矢野さんが「生まれ変わった」と語る所以となった自家造血幹細胞移植とは、大量の抗がん剤を投与して幹細胞を抹消し、がん細胞も免疫細胞も“ゼロ”にしたところで、あらかじめ取っておいた自分の幹細胞を元に戻すという、悪性リンパ腫治療の最終手段だ。
最初のうちは気を紛らわすために絵を描いたり本を読んだりしたものの、悪性リンパ腫の影響で水晶体に水がたまり、片目しか見えない状況だったため、目が疲れることは続かない。矢野さんは考えること以外、本当にすることがなくなってしまう。
「がんになる前の僕は内面の弱さを隠そうとするあまり、家族にも周りにも横暴だったと思います。でも、本当にもう後がないという思いが自分を素直にし、妻の前で思いっきり泣くことができたんです。子供もまだ小学生だったし何かと大変だったと思いますが、彼女は雪の降る日も猛暑の日も毎日、看病に来てくれました。
作ることが自分の生きる原動力であることは間違いありません。でもそれだって、しっかりと自分を支えてくれる家族がいるからこそできるんだと、改めて気付かされました」
「あと父親が見舞いに来てくれた時、石ころをもらったんです。『こんなものでも握ってると、気持ちが落ち着くもんだよ』って。それを聞いた時、こういうものを持たないと自分の心をキープできない部分が父にもあるんだと知って、すごいびっくりしたんですよ。
それと同時に、人間ってぎゅっとなにかを握っていたい気持ちがあるんだなとも思ったんです。だったら自分のアクセサリーも、それを持つ人の精神みたいなものを身体から取り出して“もの”として確認できるような、握れるような存在でありたいなと思ったんです」