稀勢の里が優勝してからというもの、ずっと卒業文集のことを考えている。誰かが横綱に昇進するとか、あるいはノーベル賞を受賞するとか、ごく稀には凶悪犯が逮捕されるとか、とにかく世の中から突出した人が現れた時に、必ずといっていいほどメディアに晒される、小中学校時代の卒業記念作文である。

 あれが恐ろしくない人がこの世にいるだろうか。まあ、いるのかもしれないが、私は恐ろしい。大きな出来事に身も心ももみくちゃにされている時に、どさくさに紛れて子供の頃の作文が公になってしまうのだ。なんという悪夢か。そんな罰ゲームが待ち受けていては、気の小さい私などおちおち出世もできないし、皇室にも入れないではないか。

横綱奉納土俵入りで ©松本輝一/文藝春秋

イチローや北島康介の作文とのちがい

 そもそもあれは何をしているのかというと、「三つ子の魂」を確認しているのだと思う。世間から飛び出た人の過去を覗いて現在と照らし合わせ、「やっぱり」でも「まさか」でも「そんなばかな」でも何でもいいが、とにかく答え合わせをして確認したいのだ。その人がその人である理由を過去に探して安心する。

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 理屈としてはわからなくもない。が、だからこそ私は絶望的な気持ちになる。思い出すのは、鶴竜の横綱昇進時のこと。モンゴル出身で卒業文集が存在しない、もしくはメディアが入手しにくい鶴竜。さすがに逃げ切っただろうと思ったら、なんと作文ではなく手紙が流出(とは言わないか)した。相撲への情熱と入門を訴える、若き日の手紙である。

初優勝が決まったあとで ©杉山秀樹/文藝春秋

 思えば、あれは宣戦布告であった。これからも三つ子の魂を確認するぞ、という明確な意思表示。そして悲しいかな、我々はそんな「三つ子の魂確認隊」の前には無力なのだ。卒業時に作文を書いたが最後、いつ訪れるかわからない「どさくさ」に怯えたまま、一生暮らさなくてはならないのである。もし、その脅威に対抗するとしたら、イチローや北島康介レベルの作文が必要であろう。彼らの文章はすごかった。小学生の身で、今まで積み重ねてきたことへの自信と、将来の明確な目標と、実現への決意と、おまけに周囲への感謝まで述べられていたのである。小6にして20人くらい教え子がいそうな、生まれついての人生のコーチっぷり。まさに「受けて立った」感のある作文だった。

祝賀会で ©杉山秀樹/文藝春秋

「なるほど」としか表現しようがない作文の力

 だが一方で、本当にそれが正解なのだろうかとの思いもある。対「三つ子の魂確認隊」の観点からいえば、真の正解は相手に過剰な感情を抱かせないことではないか。「やっぱり」も「まさか」もない平坦な境地。そう考えると、読む者を感服させてしまった時点で、イチローも北島も満点ではなかった。

 ならば、真の正解はどこにあるのか。稀勢の里である。稀勢の里は今回の昇進どさくさに際して、中学時代の卒業作文が流出した。角界への入門が決まり、クラスメイトとは違う道を歩もうとしている、後の横綱。彼が題材に選んだのは「上ばき」であった。内容を要約すると、「上ばきが2年生の時に『壊れて』しまい、不便だったり笑われたりしたが、買い換えるつもりはなかった。29センチの靴は、壊れているが故に32センチの自分でも楽に履けた。ところが先生が親に『チクッた』せいで新しいのを買うことになった。新しい上ばきは最初は履き心地が悪かったが、今はよくなった」のだそうだ。なるほど。

 そう、「なるほど」としか表現しようのないところが、この作文の力である。上ばきという思いがけないテーマに戸惑いつつ、しかしその戸惑いも中2で32センチという納得の足のサイズにより相殺されてしまう。少年らしさ、横綱らしさ、意外な素顔、何を期待して読んでも「なるほど」と曖昧に頷くしかない見事な構成になっているのだ。

「三つ子の魂確認隊」に肩すかしをくらわせるこの作文は、「どさくさ」に怯える子供たちに大いなる希望を与えることだろう。子供たちには、きっと稀勢の里の声が聞こえているはずだ。

 卒業文集ではとりあえず煙に巻いとけ。

 本当に素晴らしい横綱である。応援に行くので、大阪場所もがんばってください。 

がんばってください ©杉山秀樹/文藝春秋