第72代横綱・稀勢の里が誕生したばかりだが、彼の綱取りを心待ちにしていたひとりにNHKの相撲解説でもおなじみの元横綱・北の富士がいる。その北の富士は大関時代、部屋からの独立という騒動の渦中に巻き込まれた。

NHK大相撲中継の解説でもおなじみ、北の富士勝昭 ©文藝春秋

 1967年の大相撲初場所のあと、出羽海部屋に所属する九重親方(元横綱・千代の山。当時40歳)が北の富士(当時24歳)ら10人の力士を連れて独立、新たに部屋を開くことになる。いまから50年前のきょう、2月2日には日本相撲協会の理事会で力士たちの転属が承認され、ここに正式に九重部屋が発足した。

現役時代の北の富士 ©文藝春秋

 事の発端は出羽海部屋のお家騒動である。戦後復興期の角界を支えた千代の山は1959年に引退後、年寄・九重を襲名。この時点で「次の出羽海の座は千代の山」といわれていた。だが、翌60年に直系の師匠である七代出羽海親方(元横綱・常ノ花)が急死して風向きが変わる。

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 八代出羽海は時の日本相撲協会取締の武蔵川親方が襲名、63年には大関・佐田の山を婿養子とした。佐田の山は65年に横綱に昇進。このあと、当時改築中だった出羽海部屋の建物が市川晋松(佐田の山の本名)名義と判明するにおよび、九重親方が同部屋を継ぐ芽はほぼなくなる。ここで九重は、約50年にわたり出羽海部屋で守られてきた「年寄の分家許さず」の不文律を破ったのだった。

 九重親方たちは出羽海一門を破門される形で独立、高砂一門に移った。最悪、相撲界からの追放もありえたが、そこは協会取締だった出羽海親方の裁量で許される。角界の近代化改革に熱心だった出羽海には、九重部屋の新設によりそれまで同部屋のため本場所では不可能だった北の富士と佐田の山の黄金カードが実現し、客が呼べるとの読みもあったようだ(石井代蔵『千代の富士一代』文春文庫)。

千代の富士 ©文藝春秋

 それから3年後、九重親方は郷里の北海道福島町での巡業中、地元の中学生だった秋元貢という少年をスカウトする。のちの大横綱・千代の富士だ。千代の山の九重親方が1977年に亡くなったのち、九重部屋は北の富士、さらに千代の富士へと継承された。そして2016年、千代の富士の九重親方が死去すると、愛弟子の元大関・千代大海が部屋を引き継ぎ現在にいたっている。