「火曜日になったばかりだというのに大変なことになりました。私の目の前の駐車場にあったライトバンの中に火がつけられ煙があがっています。弥次馬がどんどん集まっています。大変なことになりました」
1977年2月1日午前1時、ラジオ番組『河野嘉之のオールナイトニッポン』の放送が始まるやいなや、ニッポン放送記者の大沼渉は中継先の東京・新宿から放火の第一報を伝えた(『総合ジャーナリズム研究』1977年春季号)。
新宿周辺では前年の11月より3カ月にわたり、毎週月曜から火曜未明にかけて各所で不審火が発生していた。6週目の火曜日、12月21日に西大久保で起きた連続3件の放火から、「火曜日の放火魔」なるあだ名がつけられ一気に世に知られるようになる。
1977年が明けて1月4日には歌舞伎町が集中的に狙われ、バーなど7軒が全半焼した。警視庁は特別捜査本部を設置、1月24日夜より大包囲網を敷いた。ニッポン放送でもその翌週の火曜日、2月1日を前に、全国ネットの人気番組『オールナイトニッポン』の枠を使って、見えない放火魔におびえる街の様子を伝えようという企画が持ち上がる。当日は各所に5人の記者を配置し、そのうち新宿二丁目一帯を担当した先述の大沼渉が番組開始直前に火災現場に遭遇した。放送中には中継車から「またも放火事件が発生し、犯人は現行犯逮捕された」とのニュースが伝えられる。午前1時20分すぎのことだ。
「火をつけると蓄膿症でムカムカした気持ちがスッとする」
取調べで約20件の犯行を自供した男は31歳の理容師だった。彼は母親の経営する都内の理容室で働いており、定休日の月曜日には新たな技術を学ぶため東大久保の理容学校に通っていた。学校が終わると夜はたいてい新宿で酒を飲むかサウナに入ったあと、明け方まで盛り場に火をつけて回っていたという。2月1日は、その前々日の日曜(1月30日)から店が休みで新宿に出てきており、前日夜にビールを飲んだあと、日付が変わって午前1時前に酒場付近の駐車場に放火。捕まったのはそこから500メートルほど離れたビルで、郵便受けの手紙に火をつけようとしていたところ、張りこんでいた機動隊員との格闘の末だった。
男は犯行動機を問われて「火をつけると蓄膿症でムカムカした気持ちがスッとする。警察や住民が大騒ぎするのが面白かった」と供述している(『シリーズ20世紀の記憶 かい人21面相の時代』毎日新聞社)。折しも同じく1月から2月にかけて都内各所に青酸入りのコーラやチョコレートが置かれ、死者も出る騒ぎが起きていた(いずれも犯人は特定できず未解決に終わる)。不特定多数をターゲットとしたこれら事件からは「愉快犯」という言葉も生まれた。
「火曜日の放火魔」により焼失した建物には、役者や文化人が集うバーもあった。
ちょうど新宿では、くだんの犯人と同い年で、芸能界デビュー間もないタモリがスナック「ジャックの豆の木」を根城に夜な夜な仲間たちと密室芸を繰り広げていたころだ(ちなみにタモリは前年10月より『オールナイトニッポン』水曜=木曜未明のパーソナリティを務めていた)。そのジャックの豆の木も1977年6月に閉店、それと前後してスナックやバーをカラオケが席巻するようになる。のちにタモリは、酒場の人間関係をズタズタにした元凶としてカラオケをことあるごとに批判した。「火曜日の放火魔」、そしてカラオケブームは、酒場の“終焉”を告げる事件であったともいえるかもしれない。