いまから50年前のきょう、1967年3月4日、春場所を前にハワイ出身の力士・高見山大五郎が新十両に昇進し、初の外国人関取が誕生した。

1979年、「週刊文春」の企画「私はこれになりたかった」でおまわりさんに扮した高見山 ©文藝春秋

 旧名のジェシー・クハウルアから「ジェシー」の愛称で親しまれた高見山は、1944年、マウイ島生まれ。ハイスクール1年生のとき、サマースクールの日系人の先生に大きな体格を見こまれ、アメリカンフットボールを始めた。そのうちに足腰を強くしてもっと強くなりたいと申し出たところ、その先生が勧めてくれたのがウエイトトレーニングと相撲だった。ここから地元の相撲クラブに入って活躍する。高校卒業後の1964年、大相撲がハワイ・ホノルルに巡業した際、元横綱・前田山の4代目高砂親方にスカウトされ、日本に渡った。

 入門当初は、魚が主体のチャンコ鍋になかなかなじめないなど、カルチャーギャップに悩みつつ、土俵では着実に成績を上げた。68年初場所、新入幕で敢闘賞、69年11月場所には小結となり三役に昇進、72年7月場所では外国人力士として初めて幕内優勝を飾る。同年9月場所には関脇となった。

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1980年 福岡市民との野球親善試合で。奥は千代の富士 ©文藝春秋

 30歳をすぎてからは毎年、今年1年は幕内を務めようと誓っていた。しかし、あるとき、部屋のベテランの床山から「1年1年じゃダメよ。もっと大きな目標を持たないと」と言われたのを機に、40歳まで相撲を取る、幕内在位100場所などの目標を立てる(『文藝春秋』2009年8月号)。引退は39歳11ヵ月26日と、目標にはほんのわずかおよばなかったとはいえ、最後となった84年5月場所は、負けがこみながらも千秋楽まで勤め上げた。幕内在位も97場所にとどまったものの、幕内連続出場1231回はいまだに破られていない大記録である。

1984年 引退会見 ©文藝春秋

 引退後は、親方になって相撲界に恩返ししたいとの思いから、そのために必要な日本国籍を取得、本名も渡辺大五郎と改める。1986年には東関部屋を開き、外国出身では初めて師匠になった。史上初の外国人横綱・曙や小結・高見盛らを育て上げ、2009年に相撲協会を定年退職する。同年には菊池寛賞が贈られた。

 ここへ来て、元大関・琴欧洲の鳴戸親方が、来月にも自らの部屋を設立すると報じられた。相撲協会に承認されれば、外国出身では、元横綱・武蔵丸の武蔵川親方に続く3人目のケースとなる。彼らをはじめ外国出身力士に道を開いたという点で、高見山が果たした役割はあまりに大きい。

菊池寛を同時受賞した本木雅弘と握手 ©文藝春秋