5年前のきょう、2012年3月16日、詩人・評論家の吉本隆明が87歳で死去した。1924年、東京の下町・月島の船大工の家に生まれた吉本は、戦後は40代半ばまで会社勤めをしながら、文筆業と二足のわらじの生活を送る。この間、労働争議が原因で会社をやめ、失業した経験も持つ。大学から教職に誘われることもあったが、「学生時代、ろくに講義を聞かなかった僕が、講義する側に回るなんて滑稽すぎます」との理由から断り続けたという(『週刊文春』2000年10月12日号)。
学生運動華やかなりし60年代には、既存の左翼を批判し、若者たちの教祖的存在となる。80年代以降は、消費社会を肯定する言説で注目された。そこには、特権的な地位にあるインテリを批判し、自らはあくまで大衆の側に立つという一貫した姿勢が見出せる。先の『週刊文春』のインタビューでも、「物を書くなんて余計な虚業」「書きたければ二十四時間を社会生活に使い、二十五時間目に自分の時間を作ればいいんです」と語っていた。
1964年に次女(作家の吉本ばなな)が生まれたころ、体を壊した夫人に代わり家事をするようになったのも、その実践だった。もっとも、ばななに言わせると、よく食事をつくってくれたのはたしかだが、「バターライスを巻いたのり巻きとか、ジャム寿司とか、いまちょっと思い出しただけでもクラッとなっちゃう(笑)」ようなメニューも多かったらしい。あるときなど、おでんを食べると酸っぱいので、腐っているのではないかと訊くと、「違う。それはヨーグルトが入ってるんだ」と言われたとか(『週刊文春』1997年2月27日号)。結局、吉本は「いつの間にか、二十四時間の中で執筆をするようになっていた(笑)。妻君からは嘘つきと言われ」るように。後年、「これは僕に信念というものがないせいですね」と反省の弁を述べた(『週刊文春』2000年10月12日号)。
1967年の講演で吉本は、「文学芸術に関する限り、問題の本質は手仕事をやるかやらないかということで決まるのです。手仕事というのは、毎日のように机の前に原稿用紙をおいて、ペンを持って、机の前に座って、なんかやるということです」と説いた(『情況への発言――吉本隆明講演集』徳間書店)。それから30数年後、70代になった彼が、なお現役でいられるコツとしてあげたのも、まさにこの「手仕事」だった。自分には信念がないと言いながら、同じインタビューでの「手を動かしていると、思いもよらぬ考えが浮かんで来るもんなんですよ」「大学で学問として文学を研究するようになっちゃ、頭は使うけど手は使わなくなってしまう」といった発言は、信念以外の何物でもないだろう。
なお、吉本隆明の死から7ヵ月後には、彼の妻で、俳人でもあった吉本和子も亡くなっている。