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世の中と報道に温度差がありすぎた
報道陣のイライラに世論が同調していればそれは正義となるが、沢尻被告の態度より「ヘリまで飛ばして追いかけて騒ぎすぎじゃないか」と報じる側に呆れていた人のほうがSNSでは多かったように思う。SNSを一つの世論とするなら、世の中と報道に温度差がありすぎたことになる。
象徴的だった田口淳之介の土下座
それで言うと今年、もう一つ象徴的な案件があった。
「仰天保釈 田口淳之介土下座」(日刊スポーツ・6月8日)である。
あの田口淳之介の土下座は見てはいけないものを見てしまったと思った。気まずくなった。しかし報じる側は「絵になる」から興奮していたように見えた。一面でデカデカと報じたスポーツ紙もある。
この温度差は何か。
振り返ればここ10年ぐらい、芸能人の謝罪はセレモニー化していた。逮捕されてしばらく話題の中心だった人物の「顔が見たい」という単純な野次馬精神に応え、カメラの前で謝罪する。
クライマックスは出てきた瞬間である。つまり出オチだ。自分の顔を晒して「世間の皆さまにご迷惑をおかけしました」と発することでその一件はピークを迎え、あとは潮が引いていく。この繰り返し。
だからこそ田口淳之介はその「決着」のハードルを過剰に引き上げ、土下座したのだろう。伝える側は狂喜したかもしれないが、「そこまでしなくていいよ」と少なくない人は思った。この温度差が何を生んだかといえば「報道される側」(タレント)より「報道する側」(マスコミ)のほうを世の中がツッコみ始めるという逆転である。