文春オンライン

『いだてん』神回「#人見絹枝に泣いた」日本女子初メダリスト、24年間の生涯とは――2019 BEST5

2020/01/02
note

アムステルダム五輪「本命競技」100mでまさかの惨敗

 続くヨーロッパ遠征となったのが、きょうの『いだてん』で描かれるアムステルダムオリンピックである。このとき採用された女子種目(100メートル・800メートル・走り高跳び・円盤投げ・400メートル)には、人見がもっとも得意とする走り幅跳びはなかった。それでも出場すると決めたからには、自信の持てる種目をつくらねばならない。そこで彼女が選んだのが100メートルだった。ここから100メートルでのオリンピック優勝をめざして努力を重ね、オリンピック予選を兼ねた1928年5月の全日本陸上競技選手権では12秒2の世界新記録を出して日本代表に選ばれる。

 だが、思わぬ結果が待っていた。アムステルダムオリンピック開会式の翌々日の1928年7月30日、100メートル予選を通過して準決勝に進むも、4位とまさかの惨敗を喫したのだ。呆然自失となった彼女は、その晩、宿舎に戻ってベッドのなかで泣けるだけ泣いた。だが、出発時に「成功しなければ2度と日本の土を踏むまい」と覚悟を決めていただけに、このままでは日本に帰れないと、翌朝、監督の竹内広三郎に800メートルへの出場を申し出る。まだ一度も経験のない種目だけに、竹内は猛反対したが、涙ながらに訴える彼女についに折れた。幸い、800メートルにも予備としてエントリーしていた。ただ、それは100メートルで勝ったあと、その勢いで800メートルを走れば6位にはなるだろうというぐらいの気持ちで申し込んでいたものであった。

800mのゴール前「何も覚えていない」

 8月1日、800メートル予選に出場した人見は、「予選通過を第一に考えて力をセーブするように」との竹内監督の助言に従い、自分の前にいる選手にぴたりとついたままゴールし、無事に決勝進出者9名に入る。翌8月2日、三段跳びの織田幹雄と南部忠平、槍投げの住吉耕作とともに宿舎から自動車でスタジアムに向かった。

ADVERTISEMENT

 決勝の号砲が鳴ったのは午後2時半。人見は抽選でトラックの一番内側の第1コースになったのを幸いに、一気に先頭に躍り出る。ここから第2コーナーを回ると誰かを先に出して、予選と同じくその後ろについて走り、ラスト100メートルで追い抜くつもりでいた。だが、人見は次々と抜かれて6番目となる。全選手がほとんど差がないまま400メートルを1周し、最後の1周に入った。第3コーナーに差し掛かるまでに、2番目と3番目の選手のあいだに入り込むと、すぐ後ろを走っていたトンプソン(カナダ)と互いに体をぶつけ合うほどの接戦となる。どうにかトンプソンを引き離したが、このあいだに、先頭のラトケ(ドイツ。当時の同種目世界記録保持者)は15メートルも先に、続くゲンツェル(スウェーデン)は4メートルほど前方にいた。2人を追いかけにかかったとき、人見にはこれ以上走るだけの耐久力を失っていた。だが苦しいなかで、竹内監督の「練習していないあなたはきっと誰よりも足が疲れてくるに決まっている。しかし、そのときは手を振ることを忘れるな」との教えを思い出し、精一杯手を振る。第4コーナーを回って、ちょっとよろめきながらもゲンツェルを抜くと、人見の目は見えなくなり、それから先は何も覚えていないという。

1928年のアムステルダム五輪女子800m、2番手を走る人見 ©getty