自腹再来日からのテスト入団という予想外の復帰
僕はたまたま練習見学に行った鎌ケ谷でオバンドーと言葉を交わしている。骨折中だったから2001年の夏だと思う。ネット裏の記者室にぶらっとオバンドーがやって来た。急のことで僕は言葉を失った。何も予定のない日で記者は誰もいない。
「ちょっとそのバットを見せてくれませんか」
ていねいな英語だった。笑顔だ。僕はたまたまバットケースを抱えていて、休みの日にやってるスローピッチソフトボールの金属バットを新調したばかりだった(購入した日、その足で取材に行った?)。オ、オーケー。ブルーメタリックのナイキのバットを取り出して手渡す。シャーマン・オバンドーはそれを持ってグリップを固め、顔の高さにかざした。
「いいバットですね。ソフトボール用?」
細身のソフトボール用バットは野球とぜんぜん違う。僕がそうだと言うと「パナマでもソフトボールは盛んですよ」と言って、また深い森のような微笑みを見せた。そして「ありがとう」と言って向こうへ行ってしまった。ヒマだったのかなぁ。後にも先にも向こうから話しかけてきたプロ野球選手はオバンドーただ一人だ。
そしていったん彼は日本球界を離れてしまう。もうあの深い森のような微笑みは見られないのか。僕は寂しくなって、海外オークションサイトでモントリオール・エクスポズ時代のオバンドーのバットを落札したりした。手元にバットが届いたときはオバンドーがやったように、グリップを固め、顔の高さにかざした。
ところが北海道移転の2004年、思いも寄らぬことが起きる。エンジェル・エチェバリアの不調に加え、小笠原&金子のアテネ五輪参加で打線が薄くなりそうだった。そこにオバンドーが自腹でテストを受けに来たのだ。またも緊急補強だ。緊急補強は「助っ人」感が倍増する。今度はわけのわからない「オーバンド」じゃない。しかも、同僚のフェルナンド・セギノールは同じパナマのボカス・デル・トロ県出身、実はオバンドーが野球指導した教え子なのだった。
さすがにかつての打棒は鳴りをひそめていた。が、カーテンコールだ。僕は泣いたよ。新しい北海道のファンに深く静かな森のようなオバンドーの雄姿を見てもらえた。翌05年シーズン途中、今度こそ彼は本当にチームを去った。NPB実働6年で通算打率.294、長打率.540、OPS.916、ホームラン102、打点314。最高の外国人スラッガーだった。
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