知将から闘将へ! 2003年の阪神優勝は野村と星野の共同作品
ただし、のちの野村監督の著書によると、このとき彼は思わぬファインプレーを見せていた。「このチームを変えられるのは西本(幸雄)さんか星野(仙一)くらいですよ」という言葉を当時のオーナー・久万俊二郎に残したという。
かくして02年、前年に中日監督を勇退した星野仙一が阪神監督に電撃就任した。星野監督といえば自らが先頭に立って、チームの士気を鼓舞する熱血漢の闘将として知られており、さらに豊富な人脈と非情な決断力も兼ね備えた政治家的手腕に定評があった男だ。
これが当時の阪神には大当たりだった。それまで野村監督によって頭を鍛えられた選手たちが、今度は「NEVER NEVER NEVER SURRENDER」を新スローガンに掲げた星野監督によって肉体と精神を鍛えられていく。実際、02年の阪神は練習の雰囲気が大きく変わったことを覚えている。本当によく声が出ていた。こう書くとレベルの低さに情けなくなってしまうが、意外にそんな平凡な精神論こそがダメ虎の元凶だったように思えてならない。
果たして02年の星野阪神は開幕から7連勝とロケットスタートに成功し、夏ごろまで首位争いを演じるなど、あきらかに今までとちがっていた。後半になると失速し、結果は66勝70敗4分けの4位に終わったものの、5年ぶりの最下位脱出に成功したのである。
さらに02年オフ、星野監督は大幅な血の入れ替えを断行した。暗黒臭が漂う古株選手たちを大量解雇し、金本知憲や伊良部秀輝、下柳剛など他球団から積極的に戦力を補強。このあたりは星野監督ならではの政治力と決断力、実行力の賜物だろう。意外に人情派として知られる野村監督では、ここまでの入れ替えはできなかったのではないか。
その結果はご存知の通りである。03年、星野阪神は18年ぶりのリーグ優勝を果たした。井川慶や今岡誠、赤星憲広といった生え抜き選手の大活躍と金本や伊良部、下柳といった移籍組の大活躍が見事なまでに融合したチャンピオンフラッグ。それはきっと野村克也と星野仙一という、二人の外様監督による共同作品だったのだろう。知将から闘将へと受け継がれた再建のバトン。この二人じゃないと、この“順番”じゃないと、猛虎復活は叶わなかったはずだ。
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