堤義明オーナーを囲む食事会

 2001年の公式戦全日程終了直後、球団広報から各メディアの担当記者に「堤義明オーナー(当時)を囲む食事会」の案内がありました。それまで定期的に行われていなかった行事のため「何がテーマなんだろう?」の思いを持って会場のホテルに向かいました。まずはワインでのどを潤し、食事、雑談が始まりましたが微妙な雰囲気のまま時間が経過していきました。

 最終戦の前日に東尾修監督の辞任が発表されていましたので次期監督の話題になり、堤オーナーから「誰か適任者いますかねぇ?」の問いかけがありました。そして、ある記者から「リーダーシップも人望もある森繁和さんがいいと思います」の声が上がり、私も同意しました。

 その後、いろいろ意見を聞きながらも最終的に「伊原(春樹)で行こうかと思ってる」と堤オーナー。それについての反対意見はなく、つまり、球団としては伊原春樹監督で決めておいて、メディアの反応を確かめたかった会合だったのです。少し手順が違っていたら、02年のシーズンは西武・森繁和監督誕生もあったかも知れません。

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ゴルフコンペにて 右から2番目が森、その左隣が伊東勤(現ロッテ監督) ©中川充四郎

「文化放送を紹介してください」

 駒大4年時の1976年のドラフトでロッテに1位指名されましたが「他の11球団はOKだったけど、残りの一つに指名されたので」(森)断りを入れ、社会人・住友金属に入社。2年後のドラフトで西武、中日、ヤクルト、日本ハムの4球団が1位競合の結果、交渉権を西武が獲得し新生・西武ライオンズの初のドラフト1位指名選手として入団しました。

『文化放送ライオンズナイター』開始の82年の開幕戦。小雨降る後楽園球場での日本ハム戦の先発投手が森。ところが、この試合も含め結果が出ず先発5試合をこなした後、広岡達朗監督は抑え転向を命じました。

 ストレートに力はありましたが、指が短いためフォークボールがうまく投げられず、寝る前に人差し指と中指の間にボールを挟み、テープでグルグル巻きにして就寝した苦労も。その効果のほどは未だ確認していませんが。その後ヒジの故障、手術などもあり、88年に現役を引退し西武、日本ハム、横浜、中日のコーチを経験し2011年まで32年間ユニホームを着続けました。

 その11年のシーズン終盤、森から携帯が鳴りました。「来年からネット裏で勉強したいので文化放送を紹介してください」とのこと。すぐにプロデューサーに連絡し、即決。そして2年後、「お世話になりました。中日に戻ります」との電話がありました。これは、一般社会では当たり前のことですが、意外にプロ野球界ではこういう義理を通す人間が少ないのも事実なのです。

 もう30年以上前に東京プリンスホテルの宴会担当者に聞いた話。西武の選手は結婚披露宴に系列の老舗ホテルを使うのが常でした。「森さんは一見いい加減な感じを受けますが、打ち合わせでは細かいところまで念入りに聞いていました。比べてはいけませんが、石毛(宏典)さんは『まぁ、いいんじゃない』と大まかでしたね」と。見た目では逆の印象がありますが、あとで妙に納得したものです。